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第 42 話 小説 摂政神功皇后 神功紀の由来
元明天皇 が右大臣藤原不比等を再び呼んだ。
「不比等よ、今日は『摂政』についてもっと聞きたいことがある。この前、日本書紀の草稿で『上宮大王 の厩戸皇太子を用明天皇の皇太子に改変し、更に推古天皇の摂政皇太子となった、と改変すること』を承認した(前話)。」
「陛下、何なりとご下問ください。申し上げたように『摂政』は今の大宝律令にすら定めがございませんから、『推古天皇の摂政』の意味は『推古天皇の補佐役、今でいうところの摂政のようなもの』といった程の意味で使わせていただきました。」
「それは聞いた。その時そちは『摂政は王族としたい』と申したが、王族でなければ摂政になれないものか?」
「推古天皇の摂政の場合は『大臣蘇我馬子より上位の王族補佐役がいた』としたかった為です。それは『律令(十七条憲法)は(今や滅亡した蘇我)馬子の功績』とされないようにです。しかし歴史的には、中国漢代には諸大臣の中から幼い帝に代わって政(まつりごと)を総(すべ)る摂政になった例がありますから、必ずしも王族であることは要件ではありませんでした。」
「そうか、わかった。、、、それでは女性が摂政になった例はあるか?、、、王族でない女性(庶妃)がなった例はあるか?」
それを聞いて不比等はピンときて心の中でつぶやいた。「そうか、陛下は孫の首(おびと)皇子の行く末を案じておられるのだ。たとえ幼い皇子が即位できても、成人するまでは後ろ盾が要る。自分は皇子の外戚祖父だから後ろ盾の一人だが、王族でない右大臣だ。その上に左大臣がいる。陛下は自分を左大臣の上の摂政に、と考え始めたのではないか。自分にもしものことがあれは、その後を自分の娘(藤原宮子、首の生母)を摂政に、とも、、、」
不比等は平伏して上奏した。「わかりました。調べさせて報告いたします。、、、皇子様がお健やかでありますように。」
「そちはわかりが早くて頼りになる、頼んだぞ」
不比等は再び舎人(とねり)親王・太安万侶(おおのやすまろ)・稗田阿礼(ひえだのあれい)らを招集した。
「歴史にご関心の強い陛下の今回のご下問は『推古女帝以来女帝は続いたが(皇極/斉明・持統)それ以前にも、皇后が病の帝に代わって政(まつりごと)を取り仕切ったとか、母后が幼帝を補佐して今でいう『摂政のような役目』を果たした例とかはあるか?』ということだ。、、、どうやら、陛下は『そういう例があって欲しい』とお考えのようだ。」
阿礼が応じた。「古事記では神功皇后が挙げられます。仲哀天皇崩御ののち、新羅征伐・皇子の出産・皇子の継承権確立(兄皇子討伐)・皇子成人祝いまでが仲哀記、そのあとに応神記が続きますから、『仲哀崩御〜応神即位までの天皇空位の長年を、天皇ではないが天皇の立場で政(まつりごと)を総覧』された様です。大臣は武内宿禰でした。」
安万侶が引き取って「古事記は仲哀記を単純にまとめ過ぎましたが、今回日本書紀の為に集めた各地の神功皇后伝承は多く、統一的解釈を示さないと各地伝承が勝手にのさばり、示し過ぎると『列島統一過程の混乱』が露呈して公式解釈が信用を失います。ほどほど中を採りましたがそれでも記述は増えて、現在の草稿では仲哀紀の半分以上が(仲哀崩御後の)神功皇后の事績です。」
「それなら、いっそ神功皇后紀を別に立てたらどうだ。」と不比等。
舎人があわてて「日本書紀は天皇紀が基本ですから、さすがそれはちょっと、、、他の皇后との違いが明確でないと、神功皇后だけを特別扱いとはできません」
「では、神功皇后は特別だった、例えば摂政だったとすればよいではないか。陛下が『女性の摂政の例はあったのか?』と問われるのは『あって欲しい』と同じじゃ。忖度して答えを用意せよ」
● 神功紀の分立
不比等が結論を先に示したので、彼らの作業そのものは簡単であった。仲哀崩御までを仲哀紀とし、以後を『神功皇后紀』とした。
その冒頭(摂政前期)に新羅征戦譚・皇子出産譚・忍熊兄弟討伐譚を配し、続いて『十月、、、群臣、皇后を尊びて皇太后 と 日ふ。是年、摂政元年とす』の一行を加えただけであった。以降の「二年、天皇葬儀、三年、太子を立つ、、、六十九年、皇太后崩ず」までは仲哀紀の草稿のままである。
「摂政になった」とはどこにも書いていないが、年の数え方が「摂政元年」を起点としているから、「神功皇后の治世」即ち「幼い皇太子に代わって空位の天皇としての政(まつりごと)を行った、後世のいわゆる摂政のようなもの」と読ませている。
● 「摂政」としたことの効果
この一行を加えたからといって、歴史を改変した訳ではない。神功皇后は元々そういう立場で天皇空位を補ってきたのだ。しかし、この言葉によってその立場に重みが与えられ、古事記以来の改変即ち「神功皇子と応神天皇を同一人とする万世一系化」・「九州日本貴国と宇治川神功国の同一視による二王権並立の隠蔽」などに説得性を与えたのだ(前々話「パンドラの箱 神功紀」参照)。
● 聖徳太子摂政譚が改変の先例_
日本書紀では「摂政」の初出は神功紀、次出は用明紀冒頭の「厩戸皇子の推古摂政」で、どちらも改変である。前者の改変作業は後者の改変を参考にしたようだ。即ち、改変の順序は「摂政聖徳太子」が先、「摂政神功皇后」が後のようだ。そう考える根拠は、後者の「摂」字が写本によって異なるなど、不安定な初使用を感じさせる一方、前者の用字が安定しているからだ(詳しくはこちら)。
● 後日談
元明/不比等は孫首皇子の即位に向けて、あらゆる深謀遠慮と謀略を陰に陽に強引に進めた。例えば、競合する皇子らを強引に臣籍降下させたり、不比等の娘を首に添わせようと、首の宮を不比等屋敷の隣に提供したりした。日本書紀の改変「神功紀・女性摂政」はそんな深謀遠慮のほんの一部だった、と筆者は推測する。
その結果、首皇子が立太子にこぎつけた(数えで16才、714年)。元明/不比等の健在・実権が続いたことで、(王族でない)不比等が摂政となる必要は無かった。また、藤原宮子(首母妃)は病弱だったので、こちらも(女性の)摂政になることはなかった。かわりに、、、
715年、元明天皇は元正天皇(715~724年、娘皇女、文武の姉)に皇位を譲った。35才で未婚だったから、皇子を産んで首皇子の地位をおびやかす恐れも無かった。聡明だったので、摂政を置く必要も無かった。
716年、不比等の若い娘が首皇太子(のちの聖武天皇)に入内した(のちの光明皇后)。
720年、日本書紀が完成したこの年、藤原不比等が病亡。
こうして、元明/不比等の聖武天皇即位を実現するまでの膨大な深謀遠慮と謀略は実を結んだ。その深謀遠慮の(ほんの)一部として『二人の摂政』が日本書紀に残った、と筆者は考える。
第41話 了
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以下、 第42話 注
●注1 元明天皇 (本文に戻る)
第 43代天皇、707年〜、女帝、天智皇女にして前代の文武天皇の母。文武崩御に伴って、孫の首皇子(のちの聖武天皇)の成人・即位までの中継ぎとして即位(不比等の推挙)。
父天智の母(皇極)の祖父が元倭国王族「上宮王」(正倉院御物に「大委国上宮王」の記載あり)だったが独立して上宮王権を再興して上宮大王を称し、法興年号を建てた。従って、元明にとって「上宮大王は父(天智)の母(皇極)方の祖」である。
これまでの元明天皇と不比等と事績
708年、法隆寺移築の詔勅(七大寺年表に「観世音寺造る、法隆寺作る」とある)。
710年、藤原京から平城京に遷都した。左大臣を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等は事実上の最高権力者となった(不比等の献策であろう)。
712年、『古事記』が献上される。
713年『風土記』の編纂を詔勅した。
713年、首皇子の異母兄弟(広世王との兄弟)を臣籍降下させ、首皇子が文武天皇の唯一の皇子となる。
(本文に戻る)
●注2 我が祖上宮大王 (戻る)
正しくは父(天智)の母(皇極)方の祖(祖父)
元明天皇(下図下端みどり)の父(天智薄青)、その母(皇極ピンク)、その祖父(上宮大王 左上@
(戻る)
●注3 摂政神功皇后 (戻る)
書紀で「摂政」初出は神功紀である。しかし、この役職は大宝律令ですら定められておらず、正式には無かったであろう。古事記に神功記は無い。
書紀の「摂政次出」は用明紀である。用明紀に「厩戸皇子、、、推古天皇の世 にして、東宮 に位居す、万機総摂して天皇の事をす、このこと推古紀に見ゆ」とあり、「摂」の字が現れているが、それは「推古紀」が根拠だ、と責任転嫁をしている。では推古紀にはどうあるか?「 厩戸皇子を立てて、皇太子とす、よりて録(よろず)摂政させ、万機を以て 悉(ことごと) に委(ゆだ) ぬ」とある(いずれも岩波版)。ところが、別の写本に基づく推古紀にはこの「摂政」の文字が「揶政」とあり(朝日新聞社版)、「揶揄(やゆ)」に使われるように「第三者的な視線、アドバイザー」の意味である。それは史実としては有り得る。同じ大和に居るが、友好的ではあるが別王権の天皇と皇太子であるから、仏教など聖徳太子が得意とする分野では「推古天皇のアドバイザー」であっておかしくない。しかし、それ以上ではなかったであろう。なにしろ蘇我馬子が両王権の大臣を兼ねていたからだ。政事で聖徳太子の出番はなかったと考えられる。
(戻る)
第41話 注 了
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