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第 43 話 古代史の散策 大安寺
奈良を何度も散策した筆者にとって思いがけないことだった。平城京跡から南東2km程の通りがかりの小さなお寺を見てびっくり、「大安寺」だったからだ。
大安寺(筆者撮影 2023.11)
今は小さなお寺だが、貴重な史料「大安寺伽藍縁起(注1)」でよく知っていた。
● もとは「百済寺」、そのもとは「熊凝(くまごり)寺」
この「大安寺縁起」によれば、この寺は舒明天皇(推古の次)が百済川側宮処(みやどころ)に宮(百済宮)と「遺贈を受けた聖徳太子の熊凝寺」を移して大寺(官寺)「百済寺」としたのが始まりとされている(舒明紀十一年、639年)。これを継いだ次の皇極天皇(舒明皇后)もこの大寺と宮の造営に大動員をかけている(皇極紀元年、642年)。百済川は「不明ながら奈良明日香付近」(通説)とされている。
この百済寺は舒明・皇極の次子の天武が藤原京付近に移して「高市大寺」とし、のちに「大官大寺」と改称された、とある(天武紀)。
更に元明天皇の時代、平城京への遷都に伴い現在地に移転し大安寺となった。
七重塔二基の壮大な官寺である。
奈良時代の大安寺 奈良市役所所蔵平城京1/1000模型(Wikipedia)
考古発掘によって東塔・西塔跡が見つかっている。
史跡大安寺東塔跡 (筆者撮影)
ここまでは観光案内にも書かれていて、古代史だから多くの「不明」な点はあるものの、「不審」を持たれずに「そんなものか」で済んできた。「倭国不記載」「他王権不記載」の日本書紀はそれでも「不審」が無いように編集されているからだ。
しかし、これまでの40話で紹介してきた当時の「三王権」の理解からは「不審」が幾つもある(第23話「三人の大王」)。それをひとつずつ解き明かす、それが古代史散策の醍醐味の一つだ。
● 舒明の大寺「百済寺」
舒明紀にも「舒明は百済川側宮処(みやどころ)に大宮(百済宮)と大寺(官営寺、百済寺)を造営」した、とある。通説は「宮処は大和明日香村」とするが、正しくは「肥前神崎郡宮処」(肥前国風土記)である(佃收説)。なぜなら舒明(田村皇子、敏達孫)は生まれも育ちも九州豊前(九州遷都時代の大和王権本拠)だったから「推古の大和小墾田宮」を継がず蘇我蝦夷の本拠近くに提供された肥前百済川側宮処(現佐賀県上寒川宮処)に再遷都したのだ(第二次九州遷都、宮は肥前だが「大和国の国都国は豊前」第7話「舒明の歌」)。佃收
舒明の宮処(百済宮、百済川(現上寒川)) 左下
そんな訳で「百済寺は大和明日香村」は誤説である。
● 不審1 百済寺は「上宮王権の大寺(官寺)」?
百済寺は聖徳太子の熊凝(くまごり)寺が基だという(大安寺縁起)。太子の寺だからいわば私寺だ。これを大和天皇が「大寺(官寺)」に格上げしたことになる(舒明紀十一年)。
でもこれは変だ。なぜなら、大和王権官寺は既に推古創建「元興寺(のちの飛鳥寺、大和明日香村)」があって続いていたからだ(推古紀十二年)。他王統の私寺を持ってくることは考えられない。
● 百済寺は上宮王権の官寺
「百済寺は上宮王権の大寺(官寺)」ではないか? そう考えられる理由はいくつもある。
(1) 上宮王権の初代大寺(官寺)は「法隆寺」であろう。上宮大王は倭国から独立するとすぐ北朝仏教の布教・興隆の為に「法隆寺」建立を発願した(594年)。だが、上宮大王(初代)が崩ずると法隆寺は(上宮法皇等身大像を主仏とする)菩提寺に衣替えされたから以後「上宮大王家の官寺」は空席になっていたと考えられる(第33話「女帝たちの法隆寺」)。
(2) 二代上宮大王は病気で崩じ(大安寺縁起)、三代(田村大王)は大和天皇即位の為退位したと考えられ(舒明紀)、いずれも在位は長くなく官寺を建造できなかったようだ。
舒明は大和天皇に即位後、遅ればせながら(前大王として)上宮王家官寺を造ったのかもしれない。熊凝寺は二代大王から遺贈されていたからだ(大安寺縁起)。
(3) 舒明に百済寺の建造を勧めたのは宝皇后かもしれない。なぜなら、上宮大王孫であり、聖徳太子の姪であったからだ(下図参考)。
二王統の系図 ■宝大王 ■山背(やましろ)大兄皇子
(4) あるいは百済寺の建造主は宝皇后自身かもしれない。田村大王が大王位を皇后に譲ると宝大王(四代)として、上宮王権官寺を造営した可能性が高い。その根拠は、舒明崩御後皇極天皇として百済寺を継続大拡大しているからだ(皇極紀元年)。皇極は上宮王統であって、大和天皇になれたのは中大兄までの中継ぎに過ぎないから、大和王権官寺拡大に熱中する謂われはない。
他にも幾つか挙げられるが略する(こちら注3)。「それらいずれもある意味で正解で、当時の(なしくずし的)二王権融合合体の実態を反映したものだ」と筆者は考えるが、結論を言おう。
「舒明紀・皇極紀の百済寺造営記事」は「上宮大王(宝四代大王)の事績」であり、「二王権融合・合体譚の序曲」と、筆者は考える。
その最大の根拠は「(上宮王統からの中継ぎなのに)皇極天皇(上宮大王兼務か)は百済大寺の大拡大の為に(堂々と)大和王権領からの徴丁を命じている」(皇極紀元年642年)とあり、二王権の境目はほとんど消えている。両王権の大臣を兼務した蘇我馬子・蝦夷(えみし)がそれを意図的にすすめた節がある。
● 不審2 百済寺を大和に移したのは天武か?
天武は百済寺を自分の大和藤原京近くに移して「大官大寺」とした(天武紀二年)。天武は舒明・皇極の次子だから両親の百済寺を近くに呼び寄せて不審はない。
「二王権融合合体(上宮王統主導の大和王権)」は舒明に始まり斉明(皇極重祚)時代に確立し、天武は大和天皇として安定していたから、「大和大官大寺」としても不審ではない。
しかし、天武は仏教より神道に関心が強く、宗像氏(倭国神祇司)から初妃を迎えたり、壬申の乱では伊勢神宮を遥拝し、天皇になってからは国家神道を整備している。
そうであれば、(上宮王家大寺の)移転の影の推進者は皇后(上宮大王四世孫、のちの持統天皇)ではないか。持統は法隆寺(上宮大王菩提寺)に天蓋を奉納している(第33話「女帝たちの法隆寺」)。祖母(皇極)譲りの仏教信奉者なのだ。
「大寺」移転の主導者が天皇なのか皇后なのかは史実として重要ではない。しかし、研究者としては「融合しつつある二王統の中で、男系(舒明・天智・天武)は大和王統系としての自覚が強く、女系(皇極/斉明・持統・元明ら)は上宮王統系に親近感を持った」という仮説の上で、「どちらが主導権を持ったか」には興味がある。その後の「日本」の針路に関係するからである。これについてはまたの機会にお話ししたい。
● 不審3 平城京移転推進者は誰か?
「天武の大官大寺(藤原京付近)」を奈良盆地中央の現在地に移して「大安寺」とした時代は元明天皇(女帝、上宮大王四世孫)だ。それを支えたのは藤原不比等(上宮大王筆頭大連中臣彌氣(みけ、舒明紀)の孫)。二人は「上宮王家系大寺」を堂々と「大和王権大寺」として壮大な伽藍を実現したのだ。この二人は「法隆寺を九州から斑鳩寺消失跡に移築」でも協力している(七大寺表708年・第41話「摂政聖徳太子」)。
● 不審4 大安寺はなぜ寂れたか?
そんな壮大な大安寺はなぜ寂れたのか、
(1) 後年(〜平安時代)、火災や地震倒壊があって縮小され寂れた。よくあることだ。
(2) 同じ聖徳太子の寺、斑鳩寺もかつて全焼したが、こちらは無傷の法隆寺が九州から移築され聖徳太子の寺とされたから(誤解)、大安寺は再興される動機に欠けたようだ。
(3) 上宮大王家系官寺は書紀の「他王権不記載」により次第に忘却され、後世の大和天皇系官寺の東大寺(聖武天皇)に主役を譲った。
このように小さな寺にはなったがそれでも歴史と伝統を守り、古代史の謎を解く手掛かりを示してくれるのだ。
以上、「大安寺の盛衰」を「不審とその解」で見てきたが、節目々々に女帝たちが見え隠れするのは驚きだが、それにより古代史の大局的理解「二王権の統合〜完了」の流れを実感させてくれるもの、と観ることができる。
こんな発見も古代史散策の醍醐味だ。
第43話 了
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以下、第43話 注
● 注1 大安寺伽藍縁起并流記資財帳 (本文に戻る)
9世紀の大安寺史料「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」の一部に
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男(めいおとこ)、自ら来りて我が病を問うや、、、天皇、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝寺を譲る、仍りて天皇位に即く、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺という」
とある。この前半には「上宮皇子(聖徳太子)が田村皇子(のちの舒明天皇)を姪男と呼んだ」とある。田村皇子を夫とするのは宝皇女(のちの皇極天皇)である。後半に登場する「天皇」は本来「大王」であろう。「朕」は上宮皇子と寺を共有する大王、文脈から「上宮皇子の薨去(622年)、上宮大王の崩御(623年)の後を継いだ上宮王家大王」である。推古天皇ではない。その大王が臨崩に際し田村皇子を次代大王に指名した、とある。後に大和舒明天皇となる(「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年参照)。
ここでは上宮大王を「天皇、臨崩」「天皇位」「朕」とあり、日本書紀の方針に合わせてこの縁起も「大王 → 天皇」の書き換えによって「偽書」・「焚書」の難を逃れたのであろう。 (本文に戻る)
●注2 山背(やましろ)大兄皇子 (戻る)
舒明即位前紀に「推古崩御ののち、天皇位継承を田村皇子(舒明)と山背(やましろ)大兄皇子が争った」とある。しかし、山背皇子は聖徳太子の子、上宮大王の孫で大和天皇継承権は無いが、上宮大王位の継承権はある。その王位継承争奪譚で勝っていないから、田村大王から上宮大王位を継承したのは宝皇女」が導出されるのである。
(戻る)
●注3 上宮大王権官寺の根拠 続き (戻る)
(6) この「大寺造営譚」は舒明紀に書かれているが、内容は「上宮大王を継いだ宝大王(四代)の官寺造営記事」の混入と見ることもできる。なぜなら、二王権の記事の混在は他にも「大和天皇位継承譚」(舒明即位前紀)に「上宮大王位継争譚(山背(やましろ)大兄皇子と宝王女の)」が混入していると見られるからだ(注2)。
(7) 混入とみる場合も、過誤による混入か、意図的な混入(誤読誘導)、どちらもありうる。
(8) 意図的な場合、「他王権不記載方針」で日本書紀原稿から削除された「上宮王家大寺建造譚」を何とか残したい、と誰かが舒明紀に合わせこんだ可能性がある(元明天皇か?、第41話参照)。
(戻る)
第43話 注 了