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第 24 話 「ふりさけ見れば」
日経新聞の朝刊連載小説「ふりさけ見れば」*(安部龍太郎著)を毎朝読んでいます。史実とフィクションが見事に溶け合って、眼前に展開される光景に説得力を感じて楽しめます。
*https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00000240X20C21A8000000/
この題「ふりさけみれば」はもちろん「古今和歌集」に収録されている阿倍仲麻呂の歌です。
天の原、ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
ここで検証したいのは、「この歌はどこで詠われたのか?」です。なぜなら、さまざまな疑問があるからです。
●(1) 定説は「唐の明州」
「この歌は唐から帰る別離の宴(756年)で詠ったものだ」とします。その根拠は古今集のこの歌の左注に 「仲麿が帰国する際にかの国明州でのはなむけの宴で、夜になりて月のいとおもしろく差し出でたるをみて仲麻呂が詠んだ、と語り伝ふる」とあり、中国からの帰国時の宴で詠んだ、とされています。
この時の宴で、詩人王維が彼に送った漢詩が残されており、又この宴で別れた後、船が難破して仲麻呂が歿したとの誤報を信じた李白が「晁卿衡を哭す(晁衡=仲麻呂)」歌を詠ったなど後日談もありました。仲麻呂は結局帰国することなく唐で没したのです。
錚々たる唐詩人達に日本語の歌を披露した、とはいささか不審もありますが、漢語で説明したとか他に漢詩も披露したとかも想像され、否定する程のことではありません。
●(2) 奈良説
一方この歌の内容から、「この歌は奈良春日の三笠山(御蓋山)で詠ったものだ」という解釈も当然あります。710年、平城京遷都と共に藤原不比等は都の安穏を祈り、東方(三笠山)の頂上浮雲峰(うきぐものみね)に武甕槌命(タケミカヅチのミコト、国譲りを勝ち取った神)を祀り都の鎮守社としたとされます。
717年、安倍仲麻呂は不比等らに従い、三笠山で遣唐使の無事と成果を祈ったことでしょう。歓送宴のあと、中空の満月を心に刻む思いで詠った歌、それを帰国(756年)に際して思いだして『帰心矢の如し、、、』と宴の友に紹介した。詠ったのは奈良だ」と読むこともできます。
717年の平城京は遷都(710年)からまもなくの建設途上で、興福寺(710年)は始まったもののその奥の春日山地にまだ春日大社(768年〜)は無く、三笠山(標高298m)は後ろの春日山(400m)の陰に隠れた小山だから、そこから月が出ないのではないか、春日なる三笠山、、、と詠う程の山ではなかったのではないか?」との疑問があります。しかし、山褒め歌ではなく、都の鎮守社で遣唐使成功を予感させる中空の満月、とみれば納得のできる歌です。
奈良三笠山(手前の小山)と
春日連山(うしろ) 奈良県HPより
●(3) 難波?
この歌の出だし「天の原、ふりさけみれば、、、」の広々した感じと「故郷を離れる思い」から、「これは遣唐使船が難波を出た後に船上で詠んだ」と読めるでしょうか?
海からは生駒山(642m)に遮られてその向こうの三笠山(298m)はおろか、春日山(400m)も見えません。月を見て心に浮かぶ三笠山を詠うなら、それも可能ですが、それならばどこでも歌えますから、唐明州でもできること、詠った地名の説明にはなりません。
●(4) 筑紫春日説
そんなことから、別説が出ています。九州王朝説の古田武彦は「三笠山は大宰府の近くの御笠山(869m、現宝満山の古名)、そのふもとに春日神社(春日村、現春日市)がある。仲麻呂は遣唐使船が日本を離れる感慨をこめて博多沖の船上からこの歌を詠った」としています(古田説)。筑紫御笠山は古来筑紫人には見慣れた秀山ですから、一部特に九州王朝説派には強く支持されています。
筑紫御笠山(現宝満山)は名山 太宰府市HPより
ふもとに大宰府政庁跡、そこから3q程で春日神社あり(春日村、現春日市)
宝満山山頂から博多湾が見える
しかし、春日神社(768年)は春日大社(768年)創建を受けて分祀したもの、筑紫春日村の村名はこの春日神社に由来するとされ(社伝)、717年の仲麻呂離日以前に春日の地名があった伝承は見出されていません。一説に留まる、としか言えません。
● ここまでのまとめ
以上から言えることは、この歌は「どこで詠ったか」には疑念がいくつかあるものの、古今集左注「明州、、、と語り伝ふる」とある以上に詮索することは意味が薄い、と言わざるを得ません。なぜなら、歌は最初に詠った場所が重要な場合もあるが、その後の推敲もあり得、披露する場に合わせた改変もあり、「語り伝ふる」間の誤伝もありうるからです。
● 筆者試論
以下は筆者の理解とその先は試論です。
春日大社は藤原氏の祖天児屋根(アマノコヤネ)を祀る神社です。天降り神話のニニギ子孫(アマノコヤネの主筋)が神武(ニニギの曽孫)と神武が九州に残したニニギ系王族に分かれのに従って、アマノタネコ(アマノコヤネ孫)は神武東征に従い、その子ウサツオミは九州に残り、以後二系統に分かれました(筆者の理解する「一図にまとめた日本古代史」参照、こちら)。
ウサツオミの九州系子孫はのちに中臣姓を賜り、その四代目である中臣鎌足につながります。大和系は没落しましたが各地の神祇司として残り、恐らく天武の時代に同族姓中臣姓を許されで、紀では中臣で出てきます(鹿島など)。
鎌足の父(中臣御気子)の代で主筋上宮王(倭国内ニニギ系王族)は倭国から独立し、その孫娘宝皇女が舒明を継いで皇極天皇となり、鎌足は皇極/中大兄皇子に仕えました。
中臣の本家は長年倭国神祇氏として、倭国政庁(博多か)に詰め、上宮王家独立の後は筑紫三笠山のふもとの大宰府に詰めたと思われます(次話で検証します)。だから、大和で春日大社(主祭神はアマノコヤネ、藤原(中臣)氏の氏神)が建立(768年)されると、即座に大宰府は筑紫御笠山近くに分祀して筑紫春日神社(主祭神アマノコヤネ)を建立したのです。春日村(現春日市)の地名由来はこの春日神社です。こお春日の地名は「大和 ? 筑紫」の順でしょう。
しかしそうであれば、さかのぼって不比等が大和に平城京の鎮守社とした社地「三笠山(御蓋山)」の名は不比等が先祖の居所大宰府の「筑紫御笠山(現宝満山)」の名を「大和三笠山(御蓋山)」に地名移植したかもしれません。三笠山の山名は「筑紫 ? 大和」の順かもしれないのです。
● まとめ 筆者解釈
阿倍仲麻呂がそれらのいきさつを不比等(720年没)から聞いていて、
遣唐使船が博多難波津から「筑紫の御笠山」を遠望した時、大和の「春日なる三笠山」を連想して、決意を新たにこの歌となった、と考えます。
改めて歌を味わってみたいと思います。
天の原、ふりさけみれば、春日なる、三笠の山に出でし月かも
● 追記
連載「ふりさけみれば」の中に阿倍仲麻呂とともに井真成(せいしんせい、遣唐使留学生)が登場する場面があります。
それで思い出したのは、筆者が10数年前に西安の博物館を訪ねた時、その2年前に発見された井真成の墓碑の拓本を入手できたことでした。それがこちら。
井真成墓碑拓本 (筆者所有)
裏面拓本(筆者所有)
第24話 了
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以下、第23話 注
●注1 筆者の理解する「一図にまとめた日本古代史」 (本文に戻る)
詳しくは、こちら。 https://wakoku701.jp/S7.html
筆者の理解する「一図にまとめた日本古代史」
ここで、アマノコヤネの孫アマノタネコが大和中臣の祖、
その子ウサツオミが九州中臣の祖、
その子孫が中臣(藤原)鎌足
詳しくは https://wakoku701.jp/S7.html
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第 24 話 注 了
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以下、第24話 注
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●注1 筆者の理解する「一図にまとめた日本古代史」 (本文に戻る)
詳しくは、こちら。 https://wakoku701.jp/S7.html
詳しくは、こちら。 https://wakoku701.jp/S7.html (本文に戻る)
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第23話 注 了
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