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第 25 話 大宰府のはじめ (改題)
前話「ふりさけみれば」の中で次の様に推測しました。
「奈良の春日神社の隣の(ちっぽけな)小山に『三笠山(御蓋山)』と名付けたのは藤原不比等だ。父鎌足ゆかりの大宰府後方の秀山『御笠山(現宝満山)』にちなんだからだ」、と。
これを検証する為、「大宰府」を「倭国と大和の関係史」の観点から見直してみました。
大宰府については大別して二つの解釈、「大和の出先府(定説)」と「九州王朝の政庁(九州王朝説)」があり、大きく異なります。その理由は、、、
定説は「倭国不記載」の記紀に従っているから半面史でしかありません。
九州王朝説は別の半面史でしかありません。「大和王権の九州遷都」*を認識していないからです。「倭国と大和の関係史」ではどちらも十分ではないのです。
::*安閑紀534〜推古紀603年の70年間、舒明紀630年〜皇極紀645年の第二次15年間)
ここでは、これらの足りないところを補って首題のテーマを検証しました。
その結果、最大の発見は「倭国は筑紫の都とは別に大宰府を設けた目的は大和を監視する為だ。そのきっかけは大和を監視するために、大和を監視するために、大和を監視するために、遣隋使のいざこざ」だ、という思いがけない「当初目的」の発見でした。
それ以後、大宰府は時々の政情に合わせて様々に使われました。
第一期:609〜618年は「対大和監視」
第二期:618〜662年は「対隋軍?対唐軍への備え」
第三期:663〜665年は「対唐軍への備え(水城など)」
第四期:667〜680年頃「駐留唐軍の対天武防衛府」
第五期:680年頃〜685年「天武の対唐防衛基地」
第六期:703年〜「日本の西国統治」
この解釈によって、定説が変わることは(いまさら)あまり期待しませんが、別の "Another Story"として楽しんでいただければ幸いです。
● 第一期:609〜618年は「遣隋使後の倭国の列島統制府(対大和)」
日本書紀の「大宰」初出は推古紀609年です。この時期、
(1) 隋は倭国の遣隋使(600〜607年)の対等外交を拒否し、裏外交で大和推古に近づき(推古紀607・608年)、「遠交近攻策」で倭国を脅して倭国に朝貢させました(隋書610年)。
( 詳しくは筆者別サイト「誤読されている遣隋使」を参照ください。https://wakoku701.jp/S5.html )
(2) そこで、倭国は隋の制度から学ぶ名目で「大宰府」を設置しました(推古紀609年、「大宰」の初出)。その真の目的は「大和推古/蘇我氏(肥前)・肥前の上宮大王/蘇我氏(兼務大臣)の対隋接近を監視・牽制する為」と考えられます。
(3) なぜなら、遣隋使に対する隋答礼使(実は調査使)は「遠交(推古に接近)近攻(倭国に脅し)外交」をちらつかせました。
その背後を支える蘇我馬子は倭国の筑紫物部守屋を滅ぼす程の肥前大豪族だったからです(崇峻紀587年)。また、上宮王/蘇我馬子は倭国からの独立を認めるよう2万の軍勢を筑紫に2年間も駐留させて倭国に圧力をかけた程の軍事力を持っていたからです(崇峻紀594年)。
(4) 隋は616年から陸海両面から100万の軍勢で高句麗征伐を繰り返しました(3回)。その隋海軍力が次に倭国に向けられた時に推古日本軍・上宮大王/蘇我軍が仮に隋に呼応すれば(遠交近攻策)、倭国は容易に潰される脅威があったからです。「大宰府」は倭国(筑紫)の南防衛ライン(対大和王権・肥前上宮王権)の意味があったと解釈できます。
●第二期:618〜662年は「倭国の倭京遷都計画・防衛計画時期(対唐)」
隋は高句麗征伐の失敗後の内乱で滅亡し(616~618年)、替わって唐が統一を果たしました(618〜628年)。
(1) 倭国は唐に対しては(再び)「遣使(630年)すれども朝貢せず」に転換し、年号を「倭京」(618年〜、九州年号)として大宰府に遷都を計画したようです。その計画を616年(隋の高句麗討伐)頃から始めたとすれば、動機は対隋防衛を考えてでしょう。
(2) 「倭京」は年号ですから漢語・和読「わきょう」です。後年孝徳紀(653年)に「倭京」が出ますが、こちらは和語「倭京(やまとのみやこ、紀振り仮名)」で大和小墾田宮のことと考えます。なぜなら「京(みやこ、現福岡県みやこ町)」は元々上宮王家領だったものを上宮王孫宝皇女(皇極・斉明)が継ぎ、その地名を斉明が大和小墾田宮に移植したと考えます。孝徳難波宮と行き来しているからです。「やまと」が「倭(やまと)」とされたのは後年の遡及表記(天武改字令、685年頃、古事記風)でしょう。
(3) 唐の関心が西方に向かっていたので、唐への恐怖感は弱まり倭国(筑紫)の遷都は計画倒れに終わったようです。大宰府はもっぱら大和への連絡伝達拠点、舒明・皇極の第二次九州遷都後には「筑紫太宰から(肥前飛鳥へ)の早馬(陸路)」(皇極紀642年)とありますから、筑紫から諸国役人の集まる大宰府へ、そこから諸国へ通達する拠点だったようです。
(4) 倭国は唐に対等外交を求め続け、唐使高表仁と揉めています(旧唐書631年)。しかし舒明(肥前飛鳥岡本宮)は同じ使い(高表仁)を難波津(博多)で手厚く接待しています(舒明紀631年)。倭国と大和王権は外交姿勢で異なりましたが、大宰府をはさんで緊張関係ながらも共存していたのです。
(5) この頃、中臣鎌足が登場します。神祇司中臣は神武東征で大和系(鹿島系を含むか)と九州系に分れたことは第 14 話*でも触れましたが、鎌足は九州系です。鎌足の父中臣御食子(みけこ)が上宮王に従って倭国を離れましたが、倭国の神祇・中臣の祖アマノコヤネの神祇などで倭国神祇系との連携も多く、倭国・諸国の接点「大宰府」に詰めていた可能性があります(推測)。それが奈良春日大社(祭神タケミカヅチ・アマノコヤネ、他二神)の創建(768年)と同年にいち早く大宰府近くに春日神社(主祭神アマノコヤネ)が分祀された由来と考えます。時の大宰帥が藤原(中臣)系だったこともありますが。
これが前第 24 話「ふりさけみれば」** の「奈良三笠山の山名の由来は筑紫御笠山」の推測根拠の一つです。
* 第 14 話
** 第 24 話
● まとめ
以上、「大宰府」の役割は国際情勢の変化に伴って様々に、対大和・対隋・対唐・対大和・対九州に変化したことを検証できたと思います。
今回の考察の基点は「大宰府の設置目的の発端は、隋から示唆された『遠交近攻策』から、倭国にとって当面の重要対策は『大和を隋に利用されない』という国内対策だったかもしれない」という、意外な側面を推測したことでした。
結果的には、大宰府はその後様々な役割に変貌しましたが、その変貌から逆に「その意外な初目的」も納得できる、と実感しています。
いかがでしょうか。
第 25 話 了
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以下、第25話 注
●注1 第三期〜第六期 (本文に戻る)
●第三期:663〜667年は「倭国/大和の対唐防衛強化(水城など、対唐)」
662年、倭国軍/日本軍は白村江で唐軍・新羅軍と戦い、大敗しました。
(1) 天智日本は白村江出兵には消極的でした。斉明崩御を理由に参戦を遅らせ、半減させました。しかし、それで唐軍が見逃してくれる訳でもないことが、百済滅亡で解りました。
(2) 唐軍の列島襲来を恐れて倭国と日本は防衛強化に努めました。「対馬国金田城などを築く」(天智紀667年)とあります。
大宰府は「倭国(筑紫)の大和・日本に対する防衛ライン」から、「倭国/大和の対唐防衛ライン」へと変わったのです。その根拠は「水城」が大宰府の下流に築造されていることから、倭国軍/日本軍が後退して逃げ込んだ時の大宰府を守る為と分かるからです。
●第四期:667〜680年頃「唐軍駐留・都督府(唐の対天武)」
(1) 白村江敗戦後も倭国の反唐路線は続いたので、667年遂に唐は2000の軍勢で筑紫に進駐し都督府(唐の占領地支配府、天智紀667年)を置き、朝貢を要求し、倭国はそれを飲みました(天智紀669年、唐会要倭国伝669年)。白村江敗戦で多くの倭国軍/日本軍将兵が唐の捕虜・人質に取られた弱みからでしょう。
進駐軍下の朝貢は「傀儡倭国」と言っても過言ではありません。
(2) 672年に「壬申の乱」が起こり、大和は親唐派の天智から反唐派の天武に代わりました。当然唐軍は天武を敵視します。天武は近畿に引きこもりました(祢軍(でいぐん、人名)墓誌)。
当初の都督府はまだ博多湾に浮かぶ軍船だったもしれませんが、672年以降は天武(大倭国継承路線)に対抗するため、都督府は大宰府に移されたと思われます(大宰府都督府跡)。
(3) 680年頃、唐の政策転換(内政重視)により、筑紫進駐軍は撤退しました。百済支配後と同様、撤退唐軍は倭国王族・要人を根こそぎ捕虜として連れ去ったか、その後の倭国の情報は無くなり、倭国は滅亡したと考えざるをえません。
●第五期:680年頃〜685年「日本(天武)の防衛基地(対唐)」
(1) 唐軍の撤退と倭国滅亡で、列島唯一の王権は大和天武となりました。天武は大和王統(舒明)と上宮王統(皇極)の両血筋を持ち、天智と共に両王統は合体し、大和を存続王権として上宮王権は合体していました。
天武は倭国系大海氏(ホアカリを祖とする、新撰姓氏録)に育てられた親倭国派・反唐派でしたから、滅亡した倭国(「大倭国」を自称)を継承したく「大倭国」の国号を継承しました。倭国残党はそれを受け入れ、大宰府は「天武の反唐拠点・西国統治拠点」となったと考えられます。
(2) 天武は唐の再来襲をおそれ、晩年には信濃遷都も考えた程です(天武紀684年)。
●第六期:703年〜「日本の外交・西国統治府(対倭国残党)」
天武が崩御し、持統称制・即位となると、持統は夫天武の反唐路線を捨て、父の親唐路線を採りました。孫の文武天皇がそれを引き継ぎ、日本国建国(701年)・遣唐使派遣(702年)を経て、唐の朝貢承認を得ました(703年、新唐書)。
大宰府は以後、「日本国の西国統治府」として続いたのです。
(本文に戻る)
第 25 話 注 了
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