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第 26 話 国防の最前線 対馬
昨今、国防論議が盛んです。9月16日のNHKテレビでも「対馬の金田城は国防最前線だった」と紹介されました。「対馬国金田城などを築く」(天智紀667年)とあり、白村江敗戦後の唐軍侵攻対策の国防城塞でした。
存在は知っていましたが見たことが無かったので、当時としては随分立派な城壁だったと驚きました。
対馬金田城(667年、対馬中部) 対馬観光協会HP
対馬国防で、ここよりも有名なのは「姫神山砲台跡」でしょう。日ロ戦争(1904)に備え、対馬沖海戦で役立った砲台です。
姫神山砲台跡(対馬中央部)対馬観光協会HP
筆者の祖母は連合艦隊東郷平八郎元帥婦人会(今でいうファンクラブ)に通って英雄として崇拝していたと聞かされてきました。
● 神崎(こうざき)も要衝
筆者が注目するのは対馬南端の「神山(こうやま)/神崎(こうざき)」です。
笠の形をした「神山(こうやま)」(写真)とその南端の岬「神崎(こうざき)」は、海上各方面からこの岬を目指して航海し、この岬で進路変更して各地に向かう「海の八差路」です。海上交易の重要な目印・要衝です。
対馬南端の神山(こうやま)、右端が神崎(こうざき) 筆者撮影
神山及び神崎(下端) 対馬観光協会HP
右上に「特攻基地跡」がある
この岬も国防の要衝でした。この近くには「特攻基地」とされる横穴壕(四穴)があり(対馬市HPより)、その大きさ(高さ・巾1.7m・奥行30m)から人間魚雷(回天)の基地かと思われます。本土に近づく米艦艇に対する守りに適した海峡最狭部です。国防の要衝です。
筆者の小学校の恩師は昨年90余才で亡くなりましたが、19歳で徴兵され横須賀兵学校でこの回天特攻の訓練中に終戦となり、命拾いして教師となりました。戦争の非情さと、平時から戦いとならない様な事前抑止がいかに大切かと教えられました。
● 「神崎」はニニギ天降りの中継地「笠沙御前(かささのみさき)」(筆者説)
「神山・神崎」となぜ「神」が付くのか、対馬市HPは「神崎半島は古代からの霊地であり、遣唐使・遣唐使新羅使い船等航行する船舶からの目標物のひとつでもあった。、、、現在も海上安全の要衝としての重要性は変わらない、、、」としています。
筆者がこの岬に注目するもう一つの理由は、この岬が古事記に出てくる「ニニギ天降り譚に出てくる笠沙御前(かささのみさき)」だと思うからです(筆者説)。
その根拠は、(1)神山は笠の形(=笠沙御前の可能性)、(2) 古事記に出てくる笠沙御前はサルタヒコ(天(海)の八衢(やちまた、八差路)をてらす国神の本拠(水先案内)、(3) 古事記には「サルタヒコはニニギを笠沙御前から筑紫日向に送り届けた」とあります。
この「日向」はイザナギ記にある「筑紫日向小戸(現関門海峡彦島小戸)です。サルタヒコ(国神)の主筋(対馬王、海原倭人国)の数代前がイザナギで、対馬交易(魏志倭人伝)の元締めだったと検証でき、日向小戸は朝鮮伽耶(金官国)の鉄を瀬戸内海各地に売り込む交易中継拠点でした。
下図はそのまとめです。その論証の要点は注1。
対馬南端「神崎(こうざき)」は「笠沙の御前」
● 「笠沙御前」(神崎)は「アマテラス倭国の列島進出の前進基地」
アマテラスは「スサノヲの葦原中つ国(現小倉市足原・中津口か)は我が子孫の治めるべき地」として、孫のホアカリ/一族郎党をサルタヒコ船団を使って繰り返し送り込み(倭国大乱)、スサノヲ一族を出雲に追いやり(国譲り)、ホアカリ倭国(倭国女王卑弥呼を共立した倭諸国の一)と考えます。ただし、記紀はこのことを「倭国不記載方針」から過半をカットしています。
アマテラスはその平定を確認してから天孫ニニギを天降りさせ、サルタヒコは笠沙御前(神山/神崎)に待ち受け、筑紫日向(イザナギ記の筑紫日向小戸(現関門海峡彦島小戸))に送り届けた、と古事記にあります。論証の要点はこちら注2
この様に、神山/神崎(笠沙御前)はアマテラス倭国の列島進出の前進基地だった、と筆者は考えます。
● まとめ
対馬は「元寇の役」でも「秀吉朝鮮の役」でも、そして「朝鮮通信使」でも最前線として対応してきました。更に現在、北端に自衛隊のレーダーサイトがあり、国防の最前線の一つです。
以上、対馬はイザナギの時代から現在に至るまで、国防の最前線だったのです。
第 26 話 了
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以下、第25話 注
●注1 神崎は古事記の「笠沙御前(みさき)」 (本文に戻る)
その根拠は、
(1) この「神山(こうやま)」は笠の形であることから、古事記ニニギ天降り譚の「笠沙御前(みさき)」の可能性があります。
(2) ここを本拠とする国神サルタヒコはここ「御前(みさき)で高天原からのニニギを待ち、日向(ひむか)まで光(てら)し送りとどけた」と古事記にあります。サルタヒコはニニギの高天原〜日向天降りの水先案内人だったのです。
(3) ニニギはこの日向が「韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前(神崎)に真来通り、朝日の直刺す国」と詔しています。ここで、「朝日の直刺す国」とは「海から朝日が昇る」の意味で、北九州では門司の峰(戸ノ上山)しかありません。
ここではこれ以上述べませんが、下図はそのまとめです。更に論証の詳細は拙著「高天原と日本の源流」* 原書房 2020年 第二章 をご参照ください。
* 紹介別サイト https://wakoku701.jp/index3.html
対馬南端「神崎(こうざき)」は「笠沙の御前」
(本文に戻る)
●注2 神崎は「アマテラス倭国の列島進出の前進基地」 古事記より (戻る)
前出のサルタヒコは笠沙御前(神崎)を本拠にしていました。その主筋(対馬王)の数代前がイザナギでした。イザナギは「良田無き対馬で交易を業とする一族」(魏志倭人伝)から弥生稲作に転業すべく交易拠点筑紫日向小戸(現関門海峡彦島小戸)で「良田を求めて、子のスサノヲを葦原中つ国(現小倉市足原中津口か)へ、子のアマテラスを本拠高天原(対馬)から更に対岸の朝鮮半島南端(現全羅南道高興(コフン)か)へ送り込み、いずれも農業で繁栄しました(スサノヲ倭国・アマテラス倭国、いずれも倭諸国の一)。
スサノヲの農地獲得が大成功したので、アマテラスは「葦原中つ国は我が子孫の治めるべき地」として、孫のホアカリ/一族郎党をサルタヒコ船団を使って繰り返し遠賀川一帯に送り込み(魏志倭人伝倭国大乱、先代旧事本紀)、スサノヲ一族を出雲に追いやり(国譲り)、ホアカリ倭国としました(恐らく倭国女王ヒミコを共立した倭諸国の筆頭に)。ただし、記紀はこの項を「倭国不記載方針」からカットしています。
更に、アマテラスは孫のニニギを祭事王としてイザナギの拠点だった筑紫日向小戸(関門海峡彦島小戸、イザナギの聖地)に送り込みました。渡海を受け持ったのが笠沙御前を拠点とするサルタヒコでした。
この様に、神崎(笠沙御前)はアマテラス倭国の列島進出の前進基地だった、と筆者は考えます。
更に論証の詳細は拙著「高天原と日本の源流」* 原書房 2020年 第二章 をご参照ください。
* 紹介別サイト https://wakoku701.jp/index3.html
(戻る)
第 25 話 注 了
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