第 47 話 高天原はどこか
地図でひも解く記紀神話
2026.02
2月11日は建国記念日、我が国の起源に立ち戻ってみよう。
神武は日向から東征し大和で建国した、とされる。今回は、曽祖父ニニギノミコト(アマテラスの孫)が高天原から日向に天降ったその「天降りルート」を逆にたどって高天原にたどり着けないか、地図を多用して追ってみたいと思う。
● 高天原から日向への天降り
神武東征の出発地「日向国=宮崎」は異論のないところ。「神武は日向国吾田(あた)の媛を妃とした」(神武紀)とあり、「宮崎県日南市吾田」に比定されている。
曽祖父ニニギが天降ったのは「日向の襲の高千穂峯」(神代紀九段)とあり、その比定地は伝承を遡るのでぼやけるが「ニニギは吾田の媛コノハナサクヤヒメを妃とした」(神代紀九段)とあるから神武紀と整合し、同じく「日向の襲の高千穂峯=吾田=宮崎」とされている。 古事記にも「(ニニギは)竺紫日向の高千穂に天降り、笠沙御前(かささのみさき)に真来(まき)通り、朝日の直(ただ)刺す国、、、いと吉(よき)地と詔す」とあり、「東方に朝日を遮る島が無い宮崎=日向」は妥当とされている。 では、どこから来たか? 「高天原」だ。その「高天原」はどこか? それは神話の世界だから「天」とされ、あるいは「?」とされている。だから、「天降りのルート」の地図を示せば下図となる。
ニニギの天降り 高天原? → 日向国
注1 古事記 神代 「(ニニギは)竺紫日向の高千穂、、、に天降ります、、、(ニニギは詔して)此の地は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)に真来(まき)通り、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり、かれ、此地(ここ)はいと吉(よ)地(ところ)と詔す、、、」 注2 紀神代九段本文・一書二・四・六(要旨) 「ニニギは日向(ひむか)の襲の高千穂の峰に降った、、、(中略)、、、吾田(あた)の笠狭之碕(かささのみさき)で美人吾田カシツヒメ(=コノハナサクヤヒメ)に会う」
● 天降り譚の「経由地」その1 二カ所の「日向」
実は、記紀を併せ読むと「ニニギ天降り譚」には「経由地」がいくつか記されている。
幼児のニニギは筑紫日向に天降ったが( * 記)、その後(成人して、陸行の)遊行(**紀)で荒れた痩せ地(阿蘇?)や丘続き(九重山?)を通って国探しして(** 紀)、吾田(=日向国、前節)で結婚している(紀)。「幼児〜成人までの筑紫日向」と「結婚して住み着いた吾田=日向国」は従来説では同一視されているが、実は別地かもしれない。
別地ならば「筑紫日向」とはどこか? 記紀にはニニギの日向に先立って「イザナギ(ニニギの曽祖父)が筑紫日向の小戸で禊(みそぎ)をした」とある(紀神代五段一書六・十)。ここには「小戸(おど)・小門(おど)・二門(海峡)」ともあり、九州で「二つの海峡」とあれば関門海峡・小門(おど)海峡(下関市)であろう。「日向の小戸」は現下関市小戸、「筑紫日向=現門司域(九州)」という比定が可能だ(検証は拙次著第二章拙次著第二章●314)。
* 古事記 神代
「(ニニギは)竺紫日向の高千穂、、、に天降ります、、、(ニニギは詔して)此の地は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)に真来(まき)通り、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり、かれ、此地(ここ)はいと吉(よ)地(ところ)と詔す、、、」
** 紀 神代九段本文・一書二・四・六(要旨)
「ニニギは日向の襲の高千穂の峰に降った、その後の遊行の状は、二上峰・天浮橋・浮渚・膂宍空国(そししのむなくに、荒れた痩せ地)より頓丘(ひたお、丘続きの)覓国行去(くにまぎとほりて、国探し)を経て、吾田長屋(あたのながや)の笠狭之碕(かささのみさき)で事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)に遇い、美人吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ、磐長姫とも、木花開耶姫(このはなさくやひめ)、豊吾田津姫とも号す)に会う、、、陵は筑紫日向」
*
古事記 神代
「(イザナギ)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまいき」
イザナギの筑紫日向がそうであれば、「ニニギの天降った筑紫日向」(紀)も筑紫日向(門司域、記紀)であろうか。門司は東西に海が開け、ニニギが天降った時の詔「此の地は朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり、、、」(記)に整合する。
ニニギはこの筑紫日向で成人後、陸行で国探しに出かけ、阿蘇や九重山を経て宮崎日向に達し、ここも「朝日の直刺す地」として「日向」と地名移植して定住ようだ。それが二カ所の「日向」と考えられる。記紀はこの陸行も「天降り」に含めている。この「国探し」は「筑紫日向の領土拡大」の目的があったと考えるが、複雑なのでここでは略す(詳細は同第二章●324)。
ニニギの遊行(陸行、「南征」と呼びたい)
この経由地を加えて前図を書き換えると下図になる
ニニギの天降り 高天原? → 筑紫日向 → 日向国
「ニニギは日向の襲の高千穂の峰に降った、その後の遊行の状は、二上峰・天浮橋・浮渚・膂宍空国(そししのむなくに、荒れた痩せ地)より頓丘(ひたお、丘続きの)覓国行去(くにまぎとほりて、国探し)を経て、吾田長屋(あたのながや)の笠狭之碕(かささのみさき)で事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)に遇い、美人吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ、磐長姫とも、木花開耶姫(このはなさくやひめ)、豊吾田津姫とも号す)に会う」
紀 神代五段一書六
「(イザナギ)、筑紫の日向の小戸(おど)の橘の檍原(あはきはら)に至りて、、、上瀬(かみつせ、[注1-9] 参照)はこれはなはだ疾(はや)し、下瀬(しもつせ)はこれはなはだ弱(ぬる)しとのたまいて、すなはち中瀬(なかつせ)に濯(すす)ぎたまふ」
紀 神代五段一書十
「(イザナギ)、粟門(あはと)及び速吸名門(はやすいなと)を見る、然るにこの二門、潮既にはなはだ急(はや)し、故に橘の小門(おど)に還向(かえ)りたまいて拂(はら)い濯(すす)ぎたまふ」
● 天降り譚の経由地その2 二カ所の「かささのみさき」
記紀には「かささのみさき」も二カ所出てくる。
幼児のニニギは日向に天降る直前、笠沙御前(かささのみさき)でサルタヒコの出迎えを受けている(古事記)。この岬は「天(海)の八衢(やちまた、八差路)、上は高天原を光(てら)し下は葦原中つ国(ニニギの治めようとする地、天降り先、日向)を光(てら)す神(水先案内人)」(古事記)とある。
古事記 笠沙の御前(みさき)(要旨)
「ニニギ天降りまさむとする時、天の八衢(やちまた)に居て、上は高天原を光(てら)し下は葦原中つ国を光(てら)す神あり、、、僕(あ)は国つ神、名は猿田毘古神(さるたびこのかみ、以下サルタヒコ)なり、出で居る所以(ゆえ)は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、(笠沙の)御前(みさき)に仕え奉(まつ)らむとして、参向侍(さぶら)ふ、とまをしき、、、」
この「日向」が筑紫日向(門司域)だった、と検証した(前節)。そうであるなら、そこに向かうニニギを途中の天(海)の八差路で出迎えた「かささのみさき」とは対馬南端の岬「神崎(こうざき)」ではないか(筆者説)。 笠の形をした砂岩の岬で、海上交通の重要な目印である(詳論は拙次著第二章●315)。

二カ所目は「ニニギが日向国(宮崎)に移住して吾田のかささのみさきでこのはなさくやひめと結婚定住した」(紀)とある(前述)。この崎がどこか、諸説あるが決め手がない。ニニギが対馬の「かささのみさき」を「吉地名」として吾田に地名移植したからだろう。
この「対馬の笠沙御前」もニニギ天降りの経由地として書き換え下図とした。
ニニギの天降り 高天原? → 笠沙御前 → 筑紫日向 → 日向国
紀神代九段本文・一書二・四・六(要旨)
「ニニギは日向の襲の高千穂の峰に降った、その後の遊行の状は、二上峰・天浮橋・浮渚・膂宍空国(そししのむなくに、荒れた痩せ地)より頓丘(ひたお、丘続きの)覓国行去(くにまぎとほりて、国探し)を経て、吾田長屋(あたのながや)の笠狭之碕(かささのみさき)で事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)に遇い、美人吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ、磐長姫とも、木花開耶姫(このはなさくやひめ)、豊吾田津姫とも号す)に会う」
● 天降り譚の出発地その1 「高天原は朝鮮半島」?
では、笠沙御前(対馬南端)を通過する前、ニニギが出発した「高天原」はどこか? さすが、それは「?」である。
しかしヒントがある。ニニギの出発地は北九州ではない(目的地が門司なら対馬に来る理由はない)。対馬でもない(対馬は経由地)。釜山でもない(対馬海流で困難)。古事記には「、、、此の地日向(門司)は、、、笠沙御前(かささのみさき)に真来(まき)通り、、、此地(ここ)はいと吉(よ)地(ところ)」(前掲)とある。「真来通り」は「笠沙から日向まで直行(直航)できる」と解釈されている。
確かに「対馬から日向(門司域)」は途中に島が無い。しかし、「途中に寄れる島が無い」は当時の手漕ぎ舟海族にとって有難いことではない。誉め言葉(吉き地)の理由になり難い。そうではなく「真来通り」とは「海流に乗れて直航できる」と解釈すべきであろう。そうであるなら、「笠沙御前、真来り(真っ直ぐ通り過ぎ)」と解釈し、「高天原から日向まで、(笠沙御前で曲がらずに)真っ直ぐ通れる吉き地」の誉め言葉とも解釈できる。
この解釈から「高天原と笠沙御前と日向(門司)は一直線」が仮想できる。この出発点ならば全行程が対馬海流に乗れて直航できる。
そこで、日向(門司)・笠沙岬を直線的に逆延長すると、朝鮮半島にぶつかる。そこが出発地か? えっ、ニニギの出発地が朝鮮半島?? 朝鮮半島が「高天原」???
高天原? → 笠沙御前 → 筑紫日向 → 日向国
実は、朝鮮半島にも倭国があった、と海外史書が伝えている。後漢書韓伝に「朝鮮半島には三韓(馬韓・弁韓・辰韓)があり、その南(部)に倭国がある」とある(下図)。しかも、三国史記新羅本紀に「弁韓(弁辰)の小国多婆那国の南西千里(80q)に倭国あり」とある **。図中●印に該当する(海の向こうの日本列島ではまだ後漢の認識外)。
後漢書韓伝 三韓と倭国
* 拙著「高天原と日本の源流」45p
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** 三国史記新羅本紀 「脱解(だっかい、新羅第四代王)は、、、もと多婆那(たばな)国(弁辰の小国)の生れ、、、その国は倭国東北一千里(80q)に在り、、、(脱解王は)倭国と好交を結ぶ(西暦59年)、、、」
そうであれば、「ニニギは半島の倭国●から来た可能性がある」と解釈できる。
高天原(半島倭国?) → 笠沙御前 → 筑紫日向 →
● 半島倭国から日向(門司)への渡海
ここで寄り道ではあるが確認のため、当時の倭人が対馬海峡を渡るときの渡海方法について検証する。
魏志倭人伝に「、、、對馬國に至る、、、良田無く、海物を食して自活す、船に乗りて南北に市糴(してき、交易)す、、、」とある。ここで「南北」とは北九州と南韓を指しているから、対馬海族にとって海峡を往来するのはむしろ生業の糧だったのだ。その時の渡海は手漕ぎのみだったか、手漕ぎと帆の併用だったか、を考察する。
弥生土器に描かれた舟には帆柱が無い。したがって、古事記・日本書紀の神代時代の倭人の航海は「人力(手漕ぎ)」が主体であったと思われる。そう仮定した上で、「人力(手漕ぎ)で対馬海峡が乗り切れるか?」という検証を進めた。
1975年にそれを実証するために角川春樹氏が進めた手漕ぎ実験舟「野生号」が対馬海峡横断に挑戦して失敗している。その後も複数回の挑戦があるようだが、失敗している。海流が強かったからだ。海流に逆らう為に漕ぎ手の数を増やそうと船を大きくしたのが失敗の一因だろう。
しかし、海族ならば「反流」を利用することを知っている。「反流(海流が湾に沿って渦巻く逆向き分流)」を使って沿岸沿いに遡上(東
→ 西)してから対馬海流(西
→ 東)に乗れば横断可能であろう、と推察できる。
倭国●の倭人たちが手漕ぎ船で出港・南下すれば海流に乗って流されて南東170qの対馬に着くだろう(下図紺線)。所要時間は筆者のヨット経験(江の島40年)からの推定だが、帆に頼らない手漕ぎの船の速度能力を3ノット(5.4km/時)* 、天候・潮流(対馬海流、1〜3ノット)の関係もあり平均1.5ノット(2.7q/時)とすると63時間(2.6日)、3日以内で対馬に着く計算になる。直航3日は厳しいが可能性ある現実的な計算だ(特にこの場合は対馬海流に乗る方向だから容易)。4日以上は好天続きを期し難く、漕ぎ手の休息・交代・慣れない乗客の疲労・船酔いを考慮すると限度を超える**
。
* 3ノットは海流を乗り切る為には必須。防波板付き丸木舟で平均1.5ノット、好天続き・満月を選んで漕ぎ手10人前後交代で昼夜続航を仮定
** 筆者のヨット経験から。江ノ島 → 小笠原1000qを6人でワッチ4時間交代で5日かけて渡海した。
倭人の対馬海峡渡海 海流・反流の利用
対馬で休息・食料補給・天気待ちして再出発・南下すれば、海流に流されるが、同じく150q3日以内で関門海峡に到着する。そのあと海流の弱い安全な沿岸沿いに東へ西へどこでも行ける。
帰りは反流を使って「北九州沿岸西航(反流) → 対馬(海流) →釜山(海流)
→ 半島沿岸西航(反流)」すれば戻れる(上図青線)。現代の日本中の漁民も地元の海流・反流は熟知しているし、ヨットマンも概ね知っている(黒潮大蛇行は昨年復旧したが、その影響も相模湾で実感できた)。
結論として、「海流を知り尽くした倭人は手漕ぎ船で対馬海峡を渡海できた」と考えられる。長野県和田峠産の黒曜石手斧が朝鮮半島で発掘されているなど、新石器時代から対馬海峡に渡海物流があったことからも、疑問の余地はない。
● 倭国●はアマテラスの国? イザナギの故地は対馬
ニニギが倭国●付近から来た可能性を確認した。では、ニニギはアマテラスの孫だからアマテラスは倭国●の王だったのだろうか? 否、アマテラスは倭国●では後発組だったと考える。
なぜなら、アマテラスの父イザナギの故地は対馬と考える。その根拠は「対馬豪族サルタヒコとの主従関係」(古事記)、「イザナギの国生み(オノゴロ島島生み譚)」(本居宣長解釈)、「スサノヲ・アマテラスの良田争い」・「スサノヲからの国譲り」・「ニニギの天降り」など(記紀)ほとんどが「対馬に良田無し」(魏志倭人伝)からの脱却戦と解釈できるから、と筆者は考える(詳細は同第一章)。
アマテラスは父に故地対馬に帰された(治めよ、と)。しかし対馬に良田は無い(魏志倭人伝)。そこで、倭国●へ再移住し良田を得て弟スサノヲの嫉妬を得るまでになったようだ(記紀、詳細は同第二章●312)。
イザナギ → アマテラスの「脱対馬(良田無し、魏志倭人伝)」
● 記紀神話の実体と背景
ニニギの天降り前、中国の半島支配(帯方郡)が進み、韓民族の南下・半島倭の列島移住・倭国大乱・国譲り・ニニギの天降りと続いた。しかし、その後半島倭国の消滅・倭国大乱収束(卑弥呼)へ進む。それが「記紀の神代から人代へ」の始まりでもあるのだ。「アマテラス〜ニニギの列島移動」から「記紀神話の実体と背景」が見えてくるのではないだろうか
?
記紀神話の舞台
記紀の祖は対馬を中心とする海峡の海族だったと考える。海を、海流を知り尽くした海族は海上交易(鉄器)から弥生稲作への生業転換を図り、「対馬脱出 → 筑紫日向(イザナギ、国生み、本居宣長解釈) → 葦原中つ国(小倉、スサノヲ)+半島倭国(一部、アマテラス) → 半島放棄(ホアカリ・ニニギ) → 国譲り(スサノヲは出雲へ)→ 南征(ニニギ、国土拡大) →日向国(ニニギから神武へ) → 神武東征(国土獲得) → 大和建国」、これが記紀神話の背景と流れだ、と筆者は考える。
第47話 了
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