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第 45 話 紫式部と清少納言
2024.09
NHK大河ドラマ「光る君へ」に「紫式部とライバル清少納言」が出てくる。一条天皇(在位西暦986〜1011)の中宮(であった)定子に仕える清少納言と、(新たに)中宮となった(藤原)彰子に仕える紫式部がライバルの女流歌人として描かれている。
このライバル関係の遠因の一つは「壬申の乱(686年、天智と天武の争い)にさかのぼる」というのが本話のテーマだ。「そんな300年前のライバル関係がなんの関わり?」というなかれ、複雑だが延々と続いた歴史がある、というのが筆者の注目するところ、歴史の面白さに光を当てたいテーマなのだ。
「枕草子」には少納言の「傍観者的批評精神」、「源氏物語」には紫式部の「朝廷中枢のドラマチックな当事者観」が表現されている。本人達は意識していないがこれには「二人の祖のライバル『天智と天武』から始まる長い長い一族の歴史」が反映され、そこに根差した「複雑なライバル感」がドラマを味わい深いものにしている、と筆者は思う。
説明させていただこう。
● 清少納言は天武系後裔
清少納言は清原氏の一族で、その祖は天武天皇-舎人親王(古事記編纂者)。清原氏を賜姓されて臣籍降下した一族である。清(原)少納言はいわば天武系なのである(天武10世孫、天武から300年後)。
清少納言は天武系 (上辺)
その清少納言は一条天皇の中宮定子(のち皇子誕生で皇后)に仕えた。一条天皇は天武系ではない。その祖は天智だから天智系である(天智11世孫)。そもそも天智系と天武系とは、、、?
300年遡るが、天智と天武は兄弟ながら仲が悪かったといわれ、天智崩御ののち大友皇太子と大海人皇子が争い(壬申の乱)、勝って即位したのが天武天皇だ。天武系皇統は100年続いた(文武・聖武など)。それを支えたのが藤原不比等とその子四兄弟らだ(次節)。藤原氏の第一次栄華の時代だ。その100年間天智系王族は没落していた。
ところが、天武皇統が聖武・称徳に継嗣が無く絶えた。天武系が絶えたので、藤原氏(藤原百川)は残存天智系王族から光仁天皇を擁立し、その子桓武天皇以降も支えたから天智系が現天皇家まで続いている。藤原氏は支える主筋を天武皇統から天智皇統に乗り換えていることになる。
● 藤原氏は天智派ではなかったか?
「天武皇統100年を支えたのは藤原不比等とその子四兄弟ら」と前述した。しかし変じゃない? そもそも不比等の父は鎌足だ。鎌足は天智の重臣。天智が崩ずると天智系と天武は争い(壬申の乱)天武が勝って天皇となった。いわば「天武は天智系や不比等にとって敵方」ではないのか? その不比等が「天武皇統を支えるとは親不孝」ではないのか?
これには事情がある。壬申の乱の敗北で天智系王族・その重臣藤原氏は没落し、不比等は幼かったから罰は免れたが地方に逼塞していた。なんとか職を得ようと近づいたのが持統天皇だった。
持統は天武崩御の後、幼い草壁皇子の即位までと中継ぎとして皇位についたが、他天武皇子を担ぐ天武系王族の中で孤立していた。戦いの相手は天武系王族だったから不比等が反天武派だろうが気にしなかった。むしろ、持統は若い不比等の中に「かって父天智と共に蘇我氏滅亡(乙巳の変)を成功させた鎌足の智謀」を見たに違いない。持統はその「若き智謀・謀略」を自身の権力と草壁の安全を確立する為に、最初は裏方として、経験を重ねるに従って徐々に不比等を表舞台へ引き出してやった。いわば二人は「互いに生き残りを賭けた新たな主従関係」を築いていったのだ。
● 藤原氏は中継ぎ派
不比等は政界への手掛かりを持統に見出した。「父鎌足と主筋天智の娘持統天皇」は最初「それしかないわずかな手づる」にすぎなかった。しかし「持統は自分の皇子草壁を即位させたい中継ぎ女帝」が好都合だった。中継ぎ女帝は表で剛腕を振るえない分、裏方の謀臣・謀略を必要とし、だから自分の活躍の余地があるからだ。
不比等と子四兄弟ら藤原氏が支えた天武皇統は100年に及んだ。
天武―持統―元明―文武―元正―聖武―孝謙―淳仁―称徳(孝謙重祚)
この皇統には中継ぎ女帝(赤字)が多い。その理由は皇統を守る為に幼い天武系皇子が即位するまでの中継ぎの女帝が続いたからだ。持統は草壁皇子(早薨)を、元明ば文武(草壁の幼皇子)を、元正は聖武(文武の幼皇子)を、称徳は皇子誕生を待つ為にそれぞれ中継ぎとして即位した。藤原氏は中継ぎを擁立し補佐する名目で右大臣〜関白・摂政まで引き上げられ、娘を天皇妃に送り込んで外戚祖父となり、権力と次代天皇選出に関わった。「天武皇統維持」が目的ではなく、中継ぎ派を支援することによって「自身の権力を得ること」が目的だったように見える。
● 持統 天武派から天智派へ
持統は天武皇后であるから天武派であり、「草壁皇太子・文武(孫)・聖武(曽孫)・孝謙(聖武皇女/称徳(重祚))はいずれも天武皇統」と考えられている(定説)。しかし、最後の称徳が(嫡皇子無く)後継に天智の孫の光仁を指名して天智系復活に道を開いたことから、筆者は別の解釈もあり得ると以下に提案する。
それは「持統は天武崩御後の即位(中継ぎ)」の頃から、天武皇統の継続よりは、「自身の血統、即ち天智皇統派に転じた」とする解釈である。これは別の表現をすれば「天智(父)−天武(中継ぎ)−持統(天智皇女)−文武(持統嫡孫)−天明(天智皇女)−天正(天智孫)−聖武(持統嫡曽孫)」を「天智皇統」と見做し、「天武はそれに到るまでの中継ぎ天皇」と見做す解釈である。
天武皇統(青)と天智皇統(@おoぃ (再掲)
これは従来の「女帝は中継ぎ」の解釈から「女帝は必ずしも中継ぎではない、天武は天智皇統の中継ぎ」と見做す新解釈を意味する。当時の中国初の女帝「則天武后」(690〜705)の出現に触発された発想、恐らく不比等の入れ知恵だろう。
● 藤原氏 本音は天智派
不比等〜藤原氏は天武皇統を支える過程で権力を掌握すると「天武王統の断絶を機に天智系を立てた」と前述した。もはや皇統が天武系である必要がなく、衰退した天智系を押し立てた方が権力主導権を強化できた。また、天智皇統を復活できた藤原氏にとって「天智皇統の祖天智と藤原氏の始祖鎌足が固く結ばれた主従であったこと(乙巳の変)」と喧伝することが権力基盤の正統性の証(あかし)となった。
皇統が天智系に代わって200年(消長はあったが)、一条天皇(天智11世孫)の時代に藤原氏は娘を中宮に送り込んで再び外戚祖父として再度一族栄華の頂点を築いた(道長は鎌足11世孫)。それが現在まで続く天智系皇統とそれを支えた藤原五摂家の繁栄に繋がったとみる。
● 紫式部と清少納言
一条天皇は藤原氏長者の摂政藤原道隆の娘定子を中宮に迎えた。道隆が没したり定子の出家騒ぎがあったりして、やむなく一条天皇は氏長者を継いだ道長の娘彰子を新中宮に迎えた。その彰子が入内したその数日後に定子が皇子を出産したので定子は名目上皇后とされ、実質的には二中宮並立のような状態がつづくことになる。
清少納言と紫式部をとりまく人脈(右半、再掲)
定子の女御の一人に清少納言が居た。前述したように清少納言の祖は天武系、仕える定子は「天武系を臣籍降下に追い込んだ藤原氏」の時の藤原道隆の娘、それが仕える一条天皇は「藤原氏が天武系から乗り換えた天智系」。あらたな中宮彰子は藤原道長の娘、それに仕える紫式部は傍流ながらも藤原一族。それぞれの祖はライバル兄弟天皇とその逆転を演出した因縁の藤原氏であった。
その因縁話は清少納言も紫式部も日本書紀・続日本紀・万葉集などに通じていたからなんとなくは知っていたはずだが200〜300年も昔の話。二人はその祖のことでライバル意識を持ったのではない。別の形「枕草子と源氏物語」で「時のライバル女流歌人」「並立した二中宮の女御二人のさや当て」とささやかれた。
しかしその二つの書の内容と立脚点、清少納言の「傍観者的批評精神」と紫式部の「朝廷中枢のドラマチックな当事者観」は明らかに本人達は意識していないが「二人の祖のライバル『天智と天武』から始まる長い長い一族の歴史」が反映している、と筆者には感じられる。そしてそこに深く根差した「複雑なライバル感」が今年のNHK大河ドラマを味わい深いものとして皆を楽しませていると思う次第だ。
これからの「光る君へ」をそれぞれに楽しみましょう。
第45話 了
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