< 目次へ 前話へ 次話へ__________________________________
第 29 話 熟田津(にきたつ)に、、、
前話で「額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる天智・天武の三角関係」(定説解釈)を否定する正解を紹介しました。好奇心に水を差したようで申し訳ありません。
ここでは、額田王の別の有名な歌を話題とします。この作者額田王はもちろん定説解釈の「大海人皇子妻(額田姫王)」ではありません(前話)。さりとて、前話正解の「額田王=天智皇后(倭姫王)のペンネーム」でもありません。別人の「初代額田王=斉明天皇のペンネーム」だったのです。(「人麻呂は誰か」坂田隆 青弓社 1993年)。
結論を申せば、「万葉集では額田王は二人いて、斉明天皇のペンネーム(初代)額田王を、嫁の天智皇后が受け継いでペンネームとした」が新たな正解です。従来の混乱し続けた「額田王」論を解く新たな正解です。
更に、熟田津はどこか、日本書紀は「ここだ」と教えています。
説明します、、、
額田王(ぬかたのおおきみ)系図 左上、初代 額田王に注目
坂田説を基に筆者作成 (前話 掲に同じ)
● 万葉集巻一-八番 額田王
さて、本題です。
万葉集巻一?八番 詞書 「斉明天皇の代、額田王の歌」
熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
左注 「山上憶良の類聚歌林によれば云々(略、後述)、即ちこの歌は(斉明)天皇の御製」
ここで左注は「額田王=斉明天皇」としています(万葉集編者の認識)。その根拠に憶良の類聚歌林の解説をながながと引用しています。長いので略、後述としました。
なぜ憶良がながながと解説したかというと、詞書では必ずしも「額田王=斉明天皇」とは読み取れないので、日本書紀から背景を説明したようです。
● 歌の背景
日本書紀から背景がわかります。
斉明紀661年に「御船西征して始めて海路に就く、、、御船、伊豫(以下伊予)の熟田津(にきたつ)の石湯の行宮(かりみや)に泊す、三月御船還りて那大津(博多)に至る、五月天皇(斉明)朝倉宮に遷りて、、、七月、天皇朝倉宮に崩ず」とあります。
「征西」は対唐白村江戦を意味し、斉明天皇自ら指揮する為に九州に向かう途中に伊予の湯に寄ったのです。熟田津は伊予にあったことがわかります。
そうであるから、憶良はこの記述を引用し、万葉集もこれを支持して、この歌は大船団の長(斉明天皇)が「潮もかなひぬ 今は熟田津から漕ぎ出でよう」と西征の大号令をかけた気迫を表している歌(額田王作)、と解釈されて来ました。それも「斉明天皇ペンネーム=額田王」と整合します。
● 伊予の湯はどこか
そうであっても、大船団を引き連れて四国の伊予温泉に立ち寄ったのか、いや大船団は関門海峡に直行し、斉明らだけが(老体でもあり)寄り道したのか、と議論が絶えません。そこで、「伊予熟田津の湯」(斉明紀)はどこか、定説は四国伊予国の道後としますが、本当に四国なのか、から検証します。
結論から先に述べると、「この伊予湯は古伊予(古名伊予二名島(ふたなじま)、現関門海峡彦島)の湯」です(筆者説)。一見素人の妄論の様に見えますが、その論拠は万全です。根拠は、、、
● 斉明の「伊予湯」は「(古)伊予湯=彦島の湯」 その根拠
(1) 記紀の「伊予」の初出は「島生み譚」の「淡路島」に続く二番目の島「伊予之二名洲(ふたなじま)」(神代紀第四段本文)です。
この伊予二名島の四面には伊予国・土左国・粟国・讃岐国があった、と古事記にあります。また、土左国風土記に「神功が珠を得た」との吉祥譚がありますが、仲哀紀に「神功が珠を得たのは穴門(長門の古名)の近く」とあります。「穴門の引嶋(ひこしま、=彦島)」と仲哀紀にあります。長門の近くの四面開けた島は関門海峡彦島しかありません。
以上から「伊予二名島=彦島」だった可能性があります。「伊予二名島にあった土左国・伊予国とは四国に地名移植される前の元名、(古)土左国・(古)伊予国でしょう(後述(7) 参照)。詳しくはこちら注1。
(2) 彦島に温泉なんかあったのでしょうか。
あったようです。天武紀684年「伊予湯泉は枯れた」とあり、彦島には枯温泉の痕跡か、今でも温泉と称する沸かし湯屋があります(彦島小戸海峡脇)。実際は19℃の鉱泉、2002年法改正(25℃以上)以前は温泉として認められたようです。
一方、道後の伊予温泉が枯れた、との記録・伝承はありませんから、斉明の伊予温泉は彦島の可能性はあります(注2)。
(3) 伊予温泉の、より詳しい文献は伊予国風土記(注3)にあり、この湯には「天皇等が五度幸した」とあり、それは「景行・仲哀/神功・聖徳太子・舒明・斉明」としています。記紀にはこの天皇等が彦島付近に御幸したり、彦島にこだわる理由の記述があり、伊予温泉は彦島の古伊予温泉の可能性が高いです(注3)。
そうであれば、西征の大船団が関門海峡を通過する時、斉明はこの島に泊して、船団をまとめたことは考えられます(熟田津港=彦島港、不詳)。
(4) 彦島は古名「蜻蛉島(あきつしま)」とも呼ばれ(第 7 話、神武の秋津島(あきつしま=やまと)の元名)、柿本人麻呂が「遠の朝廷」と詠った神武東征前の阿岐(あき)宮があったところです(神武紀、第 8 話)。彦島(伊予二名島)はイザナギ以来の大和王権の故地なのです。
だから、西征軍団が関門海峡を通過したら、寄らないはずはない、戦勝祈願の聖地です。
(5)この湯に御幸した舒明(前(3)項)には「蜻蛉島=彦島」を詠った国見歌(万葉集一‐一)があり、この歌を詠った「天香山(あまのかぐやま、=現福岡県香春岳)」からは「蜻蛉島(=彦島)」が見えるからです(第 7 話で検証しました)。皇后と蜻蛉島の湯を訪れたのもうなづけます((3) )。
(6) 山上憶良がこの歌(八番)について、「舒明と共に湯を訪れた皇后(のちの斉明)は、西征で再度訪れたこの湯で昔を思い出してこの歌を詠んだ」と解説しています(上掲左注、注4)。
憶良がなぜこの歌で舒明に言及したかというと、前(5) 項舒明の歌(の蜻蛉島=伊予二名島)を当然知り、(3) 項の「伊予風土記」(風土記編纂令は713年、元明天皇)も知っていたからでしょう。
(7) その「(古)伊予国」が後世四国に地名移植された、と考えられます。その時期は、筆者は「倭国令制国?640年頃」と推測し(注5)、考え、更に「大宝律令令制国で再編された(701年)」と考えますが、「伊予の湯」の名はなお彦島に残り、湯が枯れた天武期以後、風土記編纂令(713年、元明天皇)の四国伊予風土記編纂時、彦島(古)伊予国・彦島伊予湯の記事が包含・混入・誤入した」と考えます(詳しくは注5)。
● まとめ
以上、万葉歌二?八番「熟田津(にきたつ)に、、、」は、斉明天皇が西征途上の関門海峡彦島で「(枯れる前の)伊予の湯」に寄り、その港熟田津からの西征を宣して「額田王(ぬかたのおおきみ)」のペンネームで、詠ったものだ、とすることができます。
● 古代史の楽しみ方の提案、Another Story として楽しむことも
古代の地名、特に九州地方の地名は、大和王権の拡大と共に各地に移植されました。再移植もあり、逆移植もあります。記紀には、移植前の古地名のまま記述されているものが多数ありますが、移植後の地名と読めるように整えられている傾向があります。それが千年信じられて後世の読者は不整合に悩まされ続けてきました。
しかし、それを今更正そうとする方向の他に、Another Story として楽しむことも、古代史の楽しみ方の一つだと思って、今回一つの Another Story を提案した次第です。
第 29 話 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________
以下、第 29 話 注
●注1 伊予の湯はどこか (本文に戻る)
記紀の「伊予」の初出は「島生み譚」に出てくる「伊予二名(ふたな)島」です(神代紀)。この島には伊予国があったとも出てきます(古事記)。イザナギの時代のこの島には「小戸(小海峡)」があり(古事記)、「現関門海峡彦島小戸」と以下の様に検証できます。
土左國風土記逸文 (釋日本紀 卷第十)に「土左の國の風土記に曰く、、、玉嶋(たましま)、ある説に曰へらく、神功皇后、、、嶋に降りて、、、一つの白い石を得たまひき、詔(みことの)りたまひしく、これは海神の賜へる白真珠なり、、、故、嶋の名とす、、、」とある。
「神功皇后が珠を得たのでその島の名を玉嶋とした」という吉祥譚である。その玉嶋が土左國にあるから「土左國風土記」に記されているのである。では、「玉嶋を含む土左國」はどこにあるか。別の記事からそれが解る。
仲哀紀二年条に「皇后(神功)豊浦(とゆら)津に泊まりたまふ、この日皇后如意珠を海中に得たまふ、九月宮室を穴門(あなと)に興して居ます、これを穴門豊浦宮と謂う」とある。
神功皇后は穴門豊浦に泊まっている時に珠を得た、とある。吉祥譚であるから、二度重ねてあれば更に大吉祥として大書されるはずだが、それはない。ただ一度の吉祥であるから上記二つの記事は同一事件である。従って、玉島は土左國にあり、そこに豊浦があり、豊浦は穴門にある。
では「穴門」はどこか。穴門(あなと)は長門(ながと)の古名とされ、長門は関門海峡本州側である。従って「穴門豊浦の近くの玉嶋を含む土左國」も関門海峡本州側である。
その土左國は「古事記島生み神話、大八嶋(おほやしま)生み」では伊予國・讃岐國・粟國と共に「伊予二名島」の四面を成していた(古事記)。従って「土左國がある伊予二名島も関門海峡本州側の島」である。以下ではこれを「古土左国」と呼ぼう。
古土左國のような國を、それが例え村のような古代の小国家だとしても、4つも収容できる「関門海峡本州側の島」とは現「彦島」しかない。
仲哀紀七年に「穴門の引嶋(ひこしま、=彦島)」とあるから確かである。
彦島は本州最西端、島のように見えないが本州から地割れしたように細長い小海峡「小門(おど)海峡」を挟んだ下関の向かい側である。長門に近い「古伊予國〜古土左國があった伊予二名島」は彦島と比定するのが妥当である( 西井健一郎説 *)。
*西井健一郎説 「伊予二名島(いよふたなじま)は現彦島」とする価値ある一説 西井健一郎「私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索」古田史学会報No71号(2005)
これは、これらの国名・地名(土左國・粟國・伊予國・讃岐國)が仲哀・神功・応神・仁徳時代に関門海峡付近として繰り返し記載されているのだから、その後に彦島から四国に地名移植された可能性を示唆している。その時期は恐らく大宝元年(701年)の令制国(りょうせいこく)制定時点か、それ以前の「倭国令制国(?)」時点の可能性も有り不詳だ。
風土記も「元明天皇の風土記編纂令(713年)」によるが、「倭国風土記(?)」を経た可能性も有り不詳だ。地名移植は遠方に移植された場合、相当期間並存することが多く、移植時期が特定し難い。また、段階的である場合も多く単純とは限らない。例えば「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→ 神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) →吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など複雑な多段階が想像される場合もある* 。
*地名・国名移植 移植の動機は幾つもある。@ある土地の一族が集団移住した場合、例えば仁徳時代の九州飛鳥の漢人が難波飛鳥(近つあすか)、奈良(遠つあすか)に移住した例、蘇我氏が肥前飛鳥を大和飛鳥に地名移植した例。Aある土地の氏族が地方の領主に任命派遣された場合、例えば「崇神朝の吉備津彦 → 派遣先で吉備王国 → 吉備国。B 九州古代国名の列島拡散、例えば多利思北孤の律令制、「軍尼(くに、国造か)120有り」(隋書)、国があれば国名の命名がある。C倭国の令制国(豊前・豊後など?)。E日本国の令制国(702年大宝律令?〜明治まで殆ど不変)。また、多段階の移植経緯もある。例、例えば「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→ 神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) → 吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など。この様に、国名移植の前に地名移植が有り得、地名移植があったとしても、元の地名が遺存されて複数の同名が並存する場合もあるなど複雑だ(複数の飛鳥、複数の難波など)。ここでは表記の不統一は原典に従った。地文と歌の万葉仮名の違いなど。「淡道嶋」=「淡道之穂之狭別嶋」、「阿波志摩(万葉仮名、あはしま)」=「淡嶋」、「淤能碁呂志摩(万葉仮名、おのごろしま)」=「淤能碁呂嶋」とした。
以上から、「伊予二名島は現彦島(関門海峡)」と比定できる。(本文に戻る)
●注2 伊予の湯枯れた? (戻る)
この古伊予温泉は天武期の地震で枯れてしまった。「大いに地震い、、、伊予温泉没して出ず、、、」(天武紀684年)とある。天武紀編纂終期(720年頃、即ち数十年後)にも温泉が復活していないからこの記事が否定されていない。枯れたまま碑も失われたのであろう。四国伊予温泉が枯れたという伝承は無い。
今でも小門おど海峡の下関側に温泉(ほとんど鉱泉だが)がある。元明天皇の風土記編纂令で「四国伊予風土記」が編纂された時に「古伊予(彦島)温泉譚」が取り込まれたのであろう。 (戻る)
●注3 伊予国風土記逸文 (戻る)
本文(3) について
釋日本紀 卷十四・萬葉集註釋 卷第三 伊予風土記逸文
「伊予國風土記に曰はく、湯の郡、、、天皇等の湯に幸行降りまししこと、五度なり、(景行)天皇、、、(仲哀天皇と神功皇后)天皇、、、上宮聖コ皇子を以ちて(皇子なので天皇でないが)一度と為す、(聖徳太子に)侍するは高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧・葛城(かつらぎ)臣等なり。時に、湯の岡の側に(聖徳太子は)碑文(いしぶみ)を立つ、、、記して云へらく、(以下、碑文詞書)法興六年、、、我が法王大王と惠慈法師及び葛城臣と、夷與(いよ)の村に逍遙し、正(まさ)しく~の井を觀て、世の妙(くす)しき驗を歎(たた)ふ、意(おもひ)を敍(の)べ欲(ま)くして、(法王大王は)聊(いささ)か碑文一首を作る、(改行、法王大王の一首主文)惟(おも)ふに、夫れ、日月(ひつき)は上に照りて私せず。~の井は下に出でて給へずといふことなし。萬機(まつりごと)はこの所以(ゆゑ)に妙に應(あた)り、、、(以下、何人に偏ること無い湯浴・薬効を称賛する一首文)、、、(舒明)天皇、、、(斉明)天皇、、、此れを行幸五度と謂ふなり」とある。
ここに「伊予温泉に天皇の御幸が五度もあった」とあるが、「四国の伊予」に五度の御幸、とするのには疑問があるが、関門海峡の温泉にあった可能性は高い。なぜなら、御幸したとされる景行・仲哀/神功にはその近辺の御幸記事がある。
景行は周芳(山口県佐波)に遠征している(景行紀十二年)、皇子が伊予国御村別の始祖とある(景行紀四年)。景行が四国に行った記事は無いから、この伊予国は古伊予国(彦島伊予国)であろう。
仲哀紀に神功が穴門(長門の古名)の吉祥譚がある(土左國風土記)。この土左國は「伊予二名島の土左国」(神代紀)であろう(古土佐国)。仲哀紀に「穴門
聖徳太子は「上宮法王大王と共に伊予の湯に行っている」(上記に詳しい)。上宮法王は聖徳太子の父で、倭国ニニギ系王族(祭事王)であった(神祇司中臣の主筋)。イザナギの「筑紫の日向の小戸(現彦島小戸)」を聖地として祀る役柄として、父子で彦島伊予湯を訪ねて当然である。
本文(4)項について
この島は古名「蜻蛉島」と呼ばれ(第 話)、柿本人麻呂が「遠の朝廷」と詠った神武東征前の安芸宮があったところです(神武紀、第何話)。彦島(伊予二名島)は、イザナギ以来の大和王権の故地なのです。西征軍団が関門海峡を通過したら、寄らないはずはない、戦勝祈願の聖地なのです。
本文(5)項について
「五度の御幸」には舒明も含まれています。舒明は「やまとには、、、」の国見歌(万葉集一?一)があり、その中で「蜻蛉島みゆ」とあります。国見歌を詠んだ「天香山(あまのかぐやま、現福岡県香春岳)」から彦島(蜻蛉島)が見えるのです(20q、香春岳から四国伊予までは140mあり、海に霞んでみえません(第 話))。
彦島(蜻蛉島)も天香山(あまのかぐやま、神武がやまとに地名移植した)も神武王権を継いだ舒明にとって始祖賛美を込めた国見歌なのです。その思いで皇后と彦島の湯を訪れたはずです。。
本文(6)項について
憶良は「舒明と共に湯を訪れた皇后(のちの斉明)は、西征で再度訪れたこの湯で昔を思い出して冒頭の歌を詠んだ」と解説しています(上掲左注、注1)。
本文(7)項について
その「古伊予」が後世四国に地名移植されたようです。その時期は、少なくも前項から天武紀以後と考えられ、それは大宝律令(701年)の令制国再編令・風土記編纂令(713年、元明天皇)の伊予風土記編纂時の前で、編纂時に四国伊予国風土記に古伊予記事が混入・誤入した」と考えます。 (戻る)
●注4 山の上憶良の左注 (戻る)
「右、山上憶良、類聚歌林に曰く、舒明天皇九年(637年)、天皇(舒明)太后(宝皇后、のちの皇極/斉明)、伊予の湯の宮に幸す、斉明天皇七年(661年)、御船西征す、始めて海路に就く、御船伊予の熟田津の石湯行宮に泊す、(斉明)天皇、昔日より猶存せる物を御覧し、当時忽ち感愛の情wpヲ起し、よりて歌詠を製し哀傷す、即ち此の歌は天皇の御製なり」
憶良がこの歌に出ない「舒明」の故事を出して「舒明と訪ねたこの湯の思いでがこの歌の動機だ」としているのですが、勇壮なこの歌の内容とは一見なじみません。
しかし、憶良の示したかったこの歌の背景は、「舒明皇后としての楽しい10年、皇極天皇としての苦労の4年、乙巳の変、孝徳とのいざこざ、斉明としての新飛鳥遷都の夢、それらの思い出すべてを断ち切って、西征の重責に悲壮な、そして決死の決意をしたこの歌」、、、だった、と思います。
(戻る)
●注5 地名移植の時期 (戻る)
地名移植は人の移動、権力の移動で古来しばしば繰り返された。
倭国の国制については、遣隋使が隋に報告した「軍尼(くに)120有り、中国の牧宰(地方長官)のごとし」(隋書600年)とあり、小分割の名残が感じられる。
しかし、倭国は隋・唐に学んで(対抗して)令制国制度で諸国を統廃合したと思われる。それは初の遣唐使(631年)後、640年頃ではないか。四国に彦島の古国名(伊予国・土左国・粟国・讃岐国)を移植した(押し付けた)のもその時かもしれない。それに沿った倭国風土記が作られたかもしれない。
ただし、国名が移植されたのちも、各地の地名・伝承は各地に遺存・継続使用された可能性も高い(並存)。
倭国が滅亡(680年頃)のち、新日本国は大宝律令で新令制国を定めたが(701年)、多くは倭国令制国を継承したと思われる。
元明天皇の風土記編纂令(713年)はこの新令制国に沿っているが、この時、各地の古国名の資料が、(倭国風土記?も)新国名の風土記に包含・混入・誤入された、と考える。イザナギ伝承の伊予二名島(彦島)の伝承(伊予温泉の五度の御幸)も、新伊予国風土記にまとめられたのであろう。
(戻る)
第 29 話 注 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________