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第 28 話 あかねさす、、、
万葉集の秀歌人額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に次がありますが、「額田王をめぐる天智と天武の三角関係」(定説)として有名です。しかし「この歌の定説解釈は千年の誤読だ」、これが今回のテーマです。
天皇 蒲生野(がまふの)に遊猟せられし時額田王(ぬかたのおおきみ)よめる歌
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの、注1)行き 野守(のもり)は見ずや君が袖振る (万葉集巻一-二〇番)
注1 標野(しめの) 囲い野のこと
あかね 根が茜色染料の元 Wikipedia より
あかねさす 紅をさしたような光
この歌は次の返歌とセットで問答歌として鑑賞されてきました。
● 返歌
皇太子の答へませる御歌、諱して天武天皇といふ
紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (巻一-二一番)
?
この皇太子は、詞書に「皇太子答ふる御歌、天武天皇といふ」とあるから天智の皇太子大海人皇子(のちの天武)です。
では、「妹」・「人妻」とあるのは誰か? 返歌ですから当然「額田王」です。額田王は皇太子にとって人妻だったのです。では誰の妻だったのでしょうか?
額田王の万葉歌(巻四-四八八)に「詞書 額田王、近江天皇を思いて作る歌」として「君待つと我が恋ひ居れば、、、」がありますから、天智(近江天皇)の妻(妃?)だったのです。
ところで、記紀には「額田王」の記載がありません。そこで天智紀・天武紀を更に捜すと、それらしい唯一として天武紀に「額田姫王(ぬかたのひめきみ)」が見つかります。即ち「天皇(大海人皇子)初め鏡王の娘 額田姫王を娶る、十市皇女 を生む」(天武紀二年条)とあります。このことから、古来「額田王=額田姫王」と推測解釈されてきました。「額田王は天武の妻だった」と解釈されたのです。
これらの解釈で「額田王は天智の妻だった時期と、天武の妻だった時期がある」となります。どちらが先かは十市皇女(天智の大友皇子正妃)の年回りから「大海人皇子の妻として十市皇女を生んでまもなく、天智の妻となった」しかありません。
以上から、この二歌の定説解釈は、、、
● 定説解釈
「額田王(大海人皇子の妻であった額田姫王が、今は兄天智天皇の妻)が、『(別れた前妻の)私に手を振るなんて、(いまだ横恋慕していると)誤解されますよ』と揶揄したのに対し、大海人皇子が『美しい女性が嫌いならば(ともかく)、(残念ながら今や)人妻だから、恋しようかいやしない』と返歌した、その場は恐らく天智遊猟の宴」とされてきました。
この定説解釈は、当時はともかく、近世でも現在でも「最古の三角関係問答歌」と好奇され、あるいは「古代のあけひろげのおおらかさ」と愛好されて来ました。
なぜなら、「天智の宴で大海人皇子が怒って槍で床をぶち抜いた」という逸話が別にあり、「妻を天智に取られた」と思われ(上述)、壬申の乱で兄弟一族関係が戦うなど、「仲の悪い兄弟同士ながら、男女関係は別」の一場面、と納得させられるからです。
● 「額田王=額田姫王」は推測
しかし、この定説解釈の根拠には一点推測がありました。その一点とは「額田王=額田姫王」は「おなじ額田だから」という推測に過ぎない、という点です。それを正すことで解釈・印象も微妙に変わる、と坂田隆(注2) が詳細に論証し、筆者も「千年の誤読」の一つ、と支持するので紹介する次第です。
注2 「人麻呂は誰か」 坂田隆 新泉社 1997年
● 額田姫王は嬪(ひん) その根拠
天武紀には「皇后(天智の菟野皇女)の他に三妃(いずれも天智皇女)、三夫人、初め鏡王娘額田姫王、次々に二女を娶る」とあります(再掲)。皇后・妃・夫人の後順に記すのは「嬪(ひん、庶妃)」ですから「額田姫王は嬪」(注3、こちら) と考えられます。額田姫王は記紀・万葉集を通じてこの一か所しか記載がありません。
● 正解 「額田王と額田姫王は別人」
「額田王」は記紀に記載はなく、万葉集に九首(注4、こちら) が記されていて、天智への恋を詠い(巻四-四八八番)、天智の殯(もがり、葬礼)を締めくくり(巻二-一五五番)、御歌と尊称されています(巻一-十八番左注)。
天智の妻は九人いましたが、皇后(倭姫王、古人大兄皇子の皇女、舒明天皇の孫)以外はすべて嬪以下ですが(天智紀)、嬪がもがりを締めくくることはあり得ませんし、「御歌」の尊称は使われませんから、額田王は嬪ではなく皇后、天智の皇后と考えられます。
「弟の嬪を兄が皇后にする、はありえない」から、
正解は「額田王(天智皇后=倭姫王、父は古人大兄皇子)と額田姫王(天武嬪、父は鏡王)は別人」、万葉集の「額田王」は天智皇后の別名(ペンネーム)だったのです。
従って正解は、定説の「三角関係」は早とちり(□□の勘ぐり、千年の誤読 )として正すべきでしょう。
額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる系図
● 正解でも秀歌
正せば好奇は消えますが、もう一度読み返してみてください、二歌は「人妻に恋したくなることもある」という普遍的な男女間の機微に触れながら、「人妻ゆえに恋しない」と抑制を利かせたことによって宴に供せるおおらかな秀歌として愛好され続けると思いますが、いかがでしょうか。
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以下、第28話 注
●注3 額田姫王は嬪 (戻る)
天武紀には「皇后(?野讃良皇女(持統天皇)の他に三妃、三夫人、初め鏡王娘額田姫王、次々に二女を娶る」とありました(本文)。額田姫王は生まれた時の父鏡王は王族で、だから姫王と呼ばれましたが、皇子に嫁した時には父は臣籍降下して威奈公となったので、妃でなく嬪(庶妃)とされたと考えます。
また「初め」とありますから「大海人皇子の若い頃の最初の妻」だったと思われます。
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●注4 九首 (戻る)
実は「額田王」の歌は更に他三首あり、坂田は「この三首の額田王は別の別人、斉明天皇の歌での別名だ」と指摘して詳細に論証しています。その三首とは、
「秋の野の、、、」(巻一−七番)、詞書に「皇極(のち重祚斉明)天皇の代」、左注に「第御歌」(天皇作の意)
「塾田津(にきたつ)に、、、」(巻一−八番)、左注に「斉明天皇元年、、、天皇御製なり」
「静まりし、、、」(巻一−九番)
「額田王」は斉明天皇のペンネームだったのです。それを嫡子天智の皇后(倭姫王=額田王を継ぐ、父は古人大兄皇子)が受け継いだ、ということになります。
(戻る)
第28話 注 了
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