はじめに

目 次

概 要

本 文

地図・年表

参考文献

リンク

解 説

 

 

 

 

 

 

はじめに 目 次 概 要 ____

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第一章 半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」 

第二章 「倭国女王卑弥呼」と「邪馬台国女王」は別の国、別の女王

第三章 纒向・神武・崇神・仲哀 それぞれの倭国との関係 

第四章 仲哀皇子/応神、仲哀皇子/仁徳を同一人視

第五章 日本書紀の証言「倭国≠日本」と「倭国≧日本」

第六章 「磐井の乱」と「大和王権の九州遷都(副都)」

第七章 上宮王と倭国多利思北孤と大和王権推古

第八章 上宮王家の大和合体と倭国白村江の戦

第九章 天智の「日本」と天武の「大倭」

第十章 倭国の終焉と日本建国 

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地図・年表 参考文献 リンク 解 説 ____

 

 

  

第一章 半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」

 

  最近の更新 2014.8  (呉の倭人移動説 加筆)

 

本章の要旨 

倭人の「国」の萌芽は、紀元前1世紀にさかのぼる(漢書)。「倭国」と認識されたのは紀元1世紀(後漢書)、倭国の統一は1世紀末(魏志)、そして「倭国王」が中国遣使するのは2世紀初頭のことだ(後漢書)。倭人は朝鮮半島南端にも居て(同書韓条)、「倭国」とは対馬海峡の両岸にまたがる海峡国家だった。

海外史書と日本書紀の対応個所の新たな解釈から「高天原神話の最後部は半島の倭領域を反映」「倭奴国は半島系倭人の国」「半島系が海原系を含む倭諸国を統一」「大陸民族の玉突き南下に押されて半島の倭が渡海移動したことが倭国大乱の一因」「海原系は九州も追われて出雲系へ」などが見えてくる。

「倭人は呉の太伯の後裔」とする説を検討した。可能性は否定しないが量的な影響は限定的、と解釈される。

 

 

● 倭・倭人 南方と東方の倭人 

日本列島がまだ縄文時代だった紀元前11世紀に、倭人が中国の周に朝貢した、という文献がある。これが「倭(わ)・倭人」の最も古い時代を記述したものだ。 

論衡(ろんこう)[1](節末に表示、以下同様) 巻8 

暢草(ちょうそう=薬草)は倭より献ず

論衡 巻13 

「周時(紀元前1100年頃)、天下太平にして、越裳(えつしょう)、白雉を献じ、倭人、鬯艸(ちょうそう)を貢す

 

紀元前1100年頃 周時代   出典 世界史年表・地図 吉川弘文館

 

「倭人」とは「中国大陸南東部の沿海漁民で、鯨面文身する種族」を指してきた。「委(漁民がフカなどをおどす為の入れ墨)の人」が語源とされる[2] 。論衡の記述はその中国南東部の倭人であろう。その後、極東にも黥面文身する漁民が居ることが次第に知られ(紀元前1世紀頃)、中国はこれも同様に倭人と呼んだ [3] (後述)。

この「倭」には最終章で述べるように「日本改号」と関係する字義がある。

旧唐書(くとうじょ)[4] 東夷伝倭国条

「倭国は自らその名の雅(うつく)しからざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」

なぜ「倭国」の名が雅しからざるのか? それはこの字を文化程度の低い風俗(文身)を指す卑字とする解釈 [5] があるからだ。しかし、これは「倭国から日本への変遷」の過程で主張された一つの見方であって、歴史的に卑字と思われ続けた訳ではない。別の字義から良い意味にも解釈されてきた(次節)。 

[1] 「論衡」(ろんこう) 王充(おうじゅう 25年〜1世紀末) 編。自然観、人文、歴史、政治思想などが論じられている。

[2] 「倭」 漢書地理誌(後出)に「倭」に対する注(魏代の如淳による)として「如墨委面」とある。

[3] 「倭人」  鳥越憲三郎「倭人・倭国伝全釈」 中央公論社 2004年 4P参照

[4] 「旧唐書」  唐(618年〜907年)の290年間の史書。北宋 欧陽脩・宋祁編(945年) 倭国伝に並んで、「日本国伝」が初出する。官撰書 後晋の宰相となった劉陶の撰修とされている。

[5] 「倭の解釈」  倭(わ、ゐ)=したがう、ちいさい、みにくい、醜面。これを「匈奴」などと同様、蔑んで卑字を当てたとする解釈がある。

 

    徐福伝説 東海の倭人

 史記 [6] によれば、秦始皇帝の時代(紀元前220年‐201年)、方士(仙術士)徐福が不老不死の仙薬を求めて東海の地に到り留まって王となった、という。

史記 秦始皇本紀(前212年)

「薺の人徐市(徐福)ら上書して言う、海中に三神山あり、名づけて蓬莱、方丈、瀛洲(えいしゅう)と曰う、仙人これに居る。請う、斎戒して、童男女と之を求むことを得ん、、、(「、、、」は中略の意味、以下同じ)秦の皇帝大に説(よろこ)び、振男女(童男女)三千人を遣わし、之に五穀の種、種百工を資して行かしむ。徐福平原廣澤を得、止り王となりて來(帰)らず」

三国志 [7] 呉書 

「(徐福)蓬? (欠字)山の神仙を求めるも得ず、徐福誅を畏れて敢えて帰らず、遂にこの洲に留まる。世世相伝承し、数万家を有す。人民時に会稽に至り交易す会稽東治県の人、海に行きて風に遭い、漂流して?洲(欠字)に至る者あり。絶遠に在り、往来すべからず」

 

紀元前3世紀 秦時代の会稽(赤丸)

出典 世界の年表・地図 吉川弘文館

 

この伝説で、中国人に「中国の東方絶縁海中に知られざる温和な国、あこがれの理想郷がある」との認識が広まった。そして、「東方の倭・倭人」とはひょっとしてこの理想郷ではないか? なぜなら、「『倭』は『委(ゆだねる)の人』、『委』とは『おとなしい』の意」だから(説文解字 [8] )、と。「倭」のもう一つの字義だ。後の中国史書が「倭国」の位置を「会稽東治の東」とするのはこの伝承に由来する。

一方、「会稽東治の東海の洲とは日本列島だ」とする解釈が日本側にも古くからあり、各地(佐賀・和歌山・富士など30地域)に徐福到来伝説が遺存する。この東海の洲が「倭」なら、その「王」は「初めての倭王」ということになるが、内外にそれを裏付ける史料はない。

なお、魏略逸文に「倭人には自らを(会稽北の呉の)太伯(王族)の後(後裔)、とする伝承がある」との記録がある。これについてはやや複雑なので、本章末で紹介する。

[6]    「史記」 前漢武帝の時代(前91年頃)に司馬遷によって編纂された歴史書。

[7]    「三国志」西暦280年〜290年頃  陳寿により編纂され、後漢から西晋による三国統一までの三国時代の史書。「魏国志(魏志)」「蜀国志」「呉国志」から成る。

[8]     「説文解字(せつもんかいじ)」西暦100年 後漢の許慎(きょしん)の作。最古の部首別漢字字典。略して説文ともいう。

 

●  この時代の年表  DC1100AC8

 

年表全体は「地図・年表ページ参照」DC1100AC8

 

 

● 倭、国の萌芽  

紀元前1世紀、漢代事蹟の記録「漢書 [9]」に次の一節がある。

漢書 地理志 

「楽浪 [10] 海中倭人あり、分かれて百餘国をなし、歳時を以って来たり見すと

「倭人とは、、、」ではなく、いきなり「倭人あり」が出てくる。漢書は、読者が既に「倭人」を知っているものとして扱っている。「論衡(ろんこう)で既に御存知の黥面文身する漁民、即ち倭人が楽浪海中にもいる」と言っているのだ。「倭人」を黥面文身する漁民全般、南海倭族も含む様な表現である。これが前漢時代の認識なのだろう(漢書の編纂は後漢時代)。又、倭人という未開種族が「国」を造ることの意外性を伝えつつ、「百餘国ではまだまだ統一国家とは言えない初期段階」という様な伝え方だ。

[9]   「漢書」 前漢(前202年‐8年)の史書。後漢時代に班固(32年‐93年)が撰録。「地理志」に倭のことが1行だけ記録されている。極東倭人の初出記事として、注釈なしに倭人と言っている。

[10]    「楽浪郡」 現北朝鮮ピョンヤン付近の中国領、前108年設置。

 

● 西暦1世紀 倭国の倭奴国

次の時代を記した「後漢書 [11] 」では、漢書のこの記事を受けて「倭」について更に詳しく(千字強)記している。

後漢書東夷伝 倭条冒頭 

倭は韓の東南大海中に在り、、、凡そ百餘国、、、使驛を漢に通ずる者三十国ばかり、皆王と称す、、、

 

二世紀中ごろ 後漢の時代

出典 世界の年表・地図 吉川弘文館

 

ここでは「読者はすで極東の海の倭人を知っている、倭人と言えば極東の倭人だ」という立場で、「南海の倭族」などを字義からはずしている。南海の倭族は開化されて鯨面文身の習俗を棄て、その結果「文身する倭族の居住する地域は極東のみ」となったのかもしれない。これが後漢時代の認識なのだろう(編纂は宋代)。

1世紀の前半、倭はまだ統一されていなかったが「倭国」という捉え方がされ始めた。

後漢書 西暦57年条 

倭奴国、貢を奉り朝賀し、使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武は賜うに印綬を以て

「倭奴国」は九州福岡の湾に突き出た志賀島(しかのしま)から出土した金印「漢委奴国王印(かんのゐぬこくおうのいん)」の「委奴国 [12]」だとされる。それもあって、この文献は多くのことを示唆している。

(1)  倭奴国が北九州にあったことは、志賀島の金印の鑑定から定説化して異論のないところだ。

(2)  北九州の倭奴国が倭国の極南界だから、倭国が九州内陸部には及んでいないこと、又次節で説明するように倭国が朝鮮半島にも及んでいたから倭国は対馬海峡の両岸に存在した

(3)  中国に朝貢した倭奴国を「倭国の極南界」としていることで、倭国は朝貢していなかったこと、倭国は統一されていなかったことが解かる。その理由は、もし倭国が中国への朝貢国なら、その属国(倭国の倭奴国)の朝貢を中国は二重には受けないからだ。又、統一が成っていれば、倭国は支配下の倭奴国の「頭越しの中国への朝貢」を認めなかっただろう。これらから「倭国」は倭諸国の総称、と理解される。

(4) 倭奴国に認められたのは「倭奴国/倭奴国王」だが「倭国の中の抜きん出た国王」の印として、金印を得ることができた。将来の「倭国王」を保証されたに等しい扱いだ。これにより「朝貢」と「叙位」の典型的な冊封体制に初めて入った。倭奴国は倭国統一へ向かったと解釈できる。

 [11]   「後漢書」(ごかんじょ) 後漢(25-220年)の約200年間、5世紀南朝宋の范曄(はんよう)の編。倭国については魏志倭人伝を基にしている。

 [12]  「委奴国」 「漢の倭の奴国」ではなく「印」の慣習から「漢の委奴国」だ、との説に従った。「倭」の字ではなく、「委」の字を使っている。卑字を避けた中国側の配慮という解釈もある。「委」の字が再出する唯一の日本の文献は、正倉院御物で聖徳太子筆と言われる「法華義疏(ほっけぎそ)」写本の中にある「此是大委国上宮王私集非海彼本(これは大委国上宮王の私集(写本?)であって、海外本ではない)」という書き込みである。大委国上宮王とは多利思北孤(第7章)とする古田説がある。

  

● 倭 朝鮮半島にも   (参考地図 東アジア2世紀 別枠表示)

倭は大海中だけでなく朝鮮半島にもあった、と同じ後漢書は記述している。

後漢書 東夷伝 韓条 

「韓に三種有り、、、馬韓は西に在り、、、南は倭に接す。辰韓は東に在り、、、弁辰は辰韓の南にあり、、、其の南亦(また)倭に接す、、、地合方四千餘里、東西海を以って限りと為す、、、馬韓、、、其南界は倭に近し、亦文身する者有り。辰韓、、、鉄を出す。濊(わい)、倭、馬韓これを市に求める、、、弁辰は、、、其の国は倭に近し、故に頗ぶる文身する者あり、、、

「韓(三韓)は東西を海、南を倭と接する」としているから「朝鮮半島南端にも倭があった」と解釈できる。「弁辰、、、其の国、、、」とあり国扱いだからそれと並記される馬韓・弁韓・倭も国扱い、と解釈される。

又「馬韓・弁辰は倭に近い故に文身する者がいる」として、言外に「韓人は一般には文身しない。倭の倭人は言うまでもなく文身する」として「三韓に接する倭は別民族」との認識を示している。また、倭が鉄を韓に求めたことが記されている。

 

● 「半島の倭」 もう一つの史料 「多婆那国と脱解王」  (2011.8 訂正)

 「半島の倭」が辰韓(後に新羅)の史書にも出てくる。辰韓4代目脱解王誕生説話だ。

三国史記[13] 新羅本紀 

「脱解は、、、もと多婆那国の生れ、、、その国は倭国東北一千里に在り、、、その国王の妻が大卵を生む、王曰く、、、これを棄てよ、、、海に浮べ往く所を任せた、、、初め金官国海辺に至り、、、金官人怪みてこれを取らず、、、 辰韓に至り、、、(辰韓の)先王命じて曰く、吾が死後、、、よって位を繼ぐ57年)、、、倭国と好交を結ぶ(59)、、」

 

神話で推測する半島の倭  水色は「脱解王説話」 白線は「スサノヲ説話」(後述)

Google Map を使用

 

「脱解王は卵から生まれた」という辰の王室神話だが、倭国の具体的な地理を示唆している。「倭国から東北一千里で多婆那国、そこから海流に乗って金官・辰韓へ至った」という記述だ。これを検討する。  参考地図「神話で推測する半島の倭」 別枠表示

(1)    「金官国」は弁韓(後の伽耶)の東域と知られている。海流で流された方向と距離から多婆那国は金官の西方海岸域(上流)である。そこは弁韓の東域か馬韓である(後漢書韓条、前出)。

(2)   「倭の北は馬韓か弁韓である。馬韓は西寄り、弁韓とその北の辰韓は東寄りである」(後漢書韓条)。「多婆那国は倭の東北」(三国史記)とあるから「多婆那国は弁韓か辰韓」である。

(3)    以上の共通域は弁韓だ。多婆那国は弁韓の東域海寄り、と解釈できる。

(4)    「千里」はこの時代約80kmである。根拠は「楽浪郡から九州北端まで1万里(現在計測で約800km)」 (魏志倭人伝、 第2章参照)とある。

(5)    以上の条件を満たす領域を地図に求める。候補は多くなく「多婆那国の南西80kmにある倭国」とは「弁韓の南、馬韓寄りの海岸地方」とほぼ特定できる。これは対馬の東150kmの半島南部だ。 →(参考地図「神話で推定する半島の倭」 前掲)

(6) 従来、「倭国=大和」説では「多婆那国とは丹波(大和の北)」と解釈し、「倭国=北九州」説では「倭国の北東80kmの多婆那国とは関門海峡あたり」と解釈をしてきた。しかしこれら「倭国は列島内」を基にした両説に拠ると、多婆那国から海流に乗れば更に東北(北陸方面)に流れて半島から遠ざかってしまい、辰韓に至ることはできない。それに対し「半島に(も)倭国があった」との解釈に基づけば、「多婆那国は倭国の東北80kmの弁韓南部」と比定できて、三国史記の説話を説明できる。地理が納得性を持つから伝承が成り立つのだ。

 以上から、「多婆那国と脱解王」の説話は「半島の倭」の具体的な領域を示唆している、と解釈できる。

 [13]  『三国史記』(さんごくしき)は、朝鮮半島に現存する最古の歴史書で1145年完成、全50巻。高麗王の命により金富軾らが編纂。三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。 南韓百済寄りの修飾をしているので、第三者的客観性では日本書紀の方が勝るとする史家もいる。百済三書(日本書紀に引用がある百済記・百済新撰・百済本記)が失われたので、それらを基にしたと思われる三国史記が朝鮮の史書の標準とされている。

 

 ● この時代の年表   BC50AC80

 

   image006.gif

 

 

● 倭国統一   (参考地図 東アジア2世紀 前に同じ)

「脱解王は59年に倭国と友好を結んだ」(三国史記、前出)とあったが、三国史記の記述の流れからこの倭国は多婆那国の近くの半島倭国であろう。「脱解王は倭国と一元的な外交ができた」とは「倭国は統一された」を意味するのだろうか。しかし、これは前述「倭国の倭奴国」(後漢書57年条)の項(3)の「倭国は統一できていない」と矛盾する。恐らく状況は単純ではなく、「倭国は半島を主体に統一の過程にあったが倭国の極南界の倭奴国が一方的に独立を宣言して勝手に中国に遣使した」などの対立的関係も推測される。

それから50年程のち、倭国は後漢に遣使した、と後漢書にある。

後漢書 倭伝107年条 

倭国王 [14] 帥升(すし)等、生口(せいこう)160人を奉献し、請見を願う」

後漢書 安帝紀107年条

「倭国使いを遣わし奉献す

魏志倭人伝 [15]  

「その国(倭国)は本(もと)も亦男子を以って王となし、住(とど)まること780年なり。倭国乱れ相攻伐すること歴年。すなわち一女子を共立して王となす。名づけて卑弥呼という、、、

後漢書

「桓・霊の間、倭国大乱、、、歴年主なし、、、

「倭国は乱れる前に男子の倭国王が居て、遣使して朝貢を願い出た」とは「倭国は統一された」と考えられる。ここでは統一時期のみ検討し、「倭国大乱」については後述する。後漢桓帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)の年代がわかっているから「その前の男王が居た7080年間」を基に統一年代を逆算してみる [16]。その結果を略記すると「西暦80年頃、倭国は男王によって統一され、107年に倭国王帥升が遣使した。統一は150年〜160年まで続いたが、その後大乱があり20年前後続いた(160年〜180年)」となる。

[14]  「倭国王」 後漢書では「倭国王」だが、『翰苑』に引用されている後漢書には「倭面上国王」とあり、諸本により「倭面土国」「倭面土地王」「倭面国」などがあるなど議論が残っている(「倭人伝の用語の研究」 三木太郎 多賀出版 1984年)。ただ、西嶋等は「当初から倭国王であった」と結論している(「倭国の出現」西嶋定生)。次に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書の「倭国王珍」である。

[15]  「魏志倭人伝」 中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。

[16]   「統一年代」 後漢桓帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)の「桓帝の例えば中ごろ157年から大乱が開始した」とすると、その前、7080年間が男王の統一時期だから、統一年代は、「157年の7080年前、即ち77年〜87年」だ。倭国王帥升(107年遣使)は数代後の倭国王だ。

 

 ● 統一倭国は海峡国家

統一された「倭国」とはどの範囲か? 既に述べた三つの記述から「統一倭国」は「朝鮮半島南端と北九州を含む海峡国家」だったことがわかる。三つとは「倭奴国(北九州)を極南界とする倭国」(後漢書57年条)、「倭国と好交を結ぶ」(三国史記59年条、前出)、20年前後あとの「倭国統一」(上述)で、これらは史書の表現からも同一の「倭国」と考えられるから、統一倭国は朝鮮半島南端と北九州を含む。ただし、この統一が「倭奴国による倭国統一」なのか「倭国による倭奴国統合」なのか、従って「倭国の拠点は北九州か、半島か」はこれだけではよく解らない(後述する)。

 

倭国(赤丸)は海峡国家   Google Mapを使用

 

● 「倭国王」は自称の段階 

中国史書の外交の記述に現れる称号には、遣使する側の「自称」と中国皇帝による「叙位」がある。又遣使側の方物(宝物)献上には儀礼的な「献ずる」と中国の冊封体制下での「朝貢」「貢献」と、その両方に使われる「奉献」がある。それについては第4章で論じるが、後漢書の「倭国王帥升」の場合は献上品の内容からも単なる儀礼的「献ずる」を超えた「奉献」である。「請見」を願っている、つまり朝貢を願い出た、との記事だから、逆に未だ朝貢に到っていない状況だ。従って「倭国王」は未だ与えられた称号ではなくて「自称」の段階と考えられる。

これに対して後漢がどう反応したか、冊封体制の象徴である「朝貢」「爵授叙位」の記事は残っていない。「倭奴国の印綬」を記した後漢書がそれを記していないことは統一承認と冊封体制に到らなかった可能性が高い。その理由として「倭国の主張する統一はまだ不十分」と判定されたかもしれない。その推測の根拠の一つは、後漢書には「倭国王帥升等」とあり「複数の王」とも読める。そこで「倭国は連合国家だった、倭諸国王の一部(半島南部の倭国?)の王等(倭伝)が倭諸国を代表して楽浪郡まで出向き、奉献して請見を願った、洛陽には使いが行った(帝紀)、しかし良い返事は無かった」と考えることもできる。

倭国の統一程度については章の後半で再度検討するが、国の成立と段階をいかに定義するかは多様で、時代と共に変化する。しかし内外に多くの「国」を見ている中国が当時の比較基準を以って「国」と認めるかどうかは、一つの蓋然性のある判断である。その意味で、中国の認定は重要だ。

 

● 倭国が倭奴国を統合

「倭奴国の建国から20年程後(80年頃)に倭国が統一されたこと、更に30年程後に倭国は後漢に遣使した、しかし承認と叙位はあった形跡がない」と前述した。この統一について検討する。

「倭奴国が倭国を統一した」ならば冊封体制の継続であるから、後漢は新倭国に対して統一承認と叙位をするのが自然だがそれがない。このことから逆に「(半島の)倭国が倭奴国を含めて統合した」と考えられる。

では、なぜ後漢は新倭国に承認を与えなかったのか? 一つの理由は、倭国は未だ連合国家で、大陸的な意味の統一国家でなかった可能性がある(前述)。加えて、「倭奴国にはなぜ金印を与えたか」を理解することが参考になる。漢や韓から見れば、海原の倭人が半島を荒らし(三国史記BC50年・AD14年条)しだいに半島内に「倭国」を形成しつつあるのを問題視していた可能性がある。一方、半島の倭の一部が海原の倭を制圧し、はるか絶遠の地である北九州にまで達して倭奴国を建てた後、後漢に朝貢してきた。これは「漢の文化圏拡大の成果として顕彰に値する事績」として、又半島の倭国を牽制する意味も込めて後漢は「倭奴国」に金印を与えた(遠交近攻策)。これと同じ理由で「半島の倭国の膨張」に懸念を抱いて倭国には承認を与えなかった、と解釈することもできる。別の理由も考えられる。後に漢に代わった魏は半島の倭を帯方郡に付属させた。中国は半島の倭を冊封体制ではなく帯方郡のように「直轄領にする方針」があったのだろう。中国の楽浪郡・帯方郡の狙いは新羅地域(半島南東部)の鉄だと考えられているからだ。

 

● 倭国大乱 

そのような状況の中で「倭国大乱」が160年〜180年頃起きた。中国史書はその事実と結果について「卑弥呼を共立して収まった」と述べるのみで、その原因・対立勢力・収拾の中身についてなにも言及していない。それが様々な推測と仮説と論争を巻き起こしてきた。特に考古学から土器・金属(銅鐸・銅矛など)の出土分布研究、高地集落遺跡など、中国文献の北方民族移動の波及、日本書紀の「国譲り」物語と関係づける案などがある。しかし、分野間の説に整合性が欠けるなど定説化していない。

  

● この時代の年表   80-173

 

 

 

● 半島情勢 韓の強勢

 ここでは「倭国大乱」を取り巻く国際情勢に着目する。魏志韓伝の2世紀後半の記述に「半島の倭」と関係ある部分がある。括弧は筆者追記。

魏志韓伝

「桓帝、霊帝(146年−189年)の末、韓・ワイ(濊 北朝鮮の日本海側、辰韓の北 後の高句麗)が強勢となり、、、多くの民が韓国(三韓?)に流入す。建安年間(196年−220年 後漢末)、、、(漢の)遺民を集めるため、兵を挙げて韓とワイを討伐したが、旧民はわずかしか見出せなかった。この後、倭と韓を遂に帯方(郡)に帰属させた。」

この記述の「倭」は「半島の倭」と考えられる。その理由は、この記事で後漢の関心が半島の漢民の保護にあり、海中の倭を視野にいれていないからだ。「帰属させた」とは半島の倭を帰属させたと考えられる。

ここで注目するのは「桓帝、霊帝末に韓が強勢となった」とある点だ。「霊帝末」なら180年頃となるが、「桓帝、霊帝の末」とは「二帝にまたがる後半」と解釈でき、「桓帝末」の168年を含む160年〜180年に当たりちょうど「倭国大乱(160年〜180年)」のあった頃だ(「桓・霊の間、倭国大乱」後漢書、前出)。この2つの史実「韓の強勢」と「倭国大乱」は関係があるのだろうか?

 

● 半島倭人の南下で倭国大乱         参照地図 前に同じ 

当時は後漢末の混乱期でその最後が「黄巾の乱」(184年)だ。その間、民族間の玉突きのような移動と争いが多い。「韓・ワイが強勢となり」とは北方からの圧力で民族南下が起こり「多くの民が韓国(馬韓・辰韓)に流入」(魏志韓伝)したと解釈できる。その結果在来韓人は隣接する倭領域に押し出され、半島南部の倭人が難を逃れて列島に多く流入した可能性がある。

 更にこの頃、半島南部にしばしば飢饉が起こったと記録されている。これも半島の倭人が列島へ移住する原因になったと考えられる。

三国史記 新羅本紀

125年「靺鞨(まっかつ、後の高句麗)が(辰韓の)北部へ侵入」

137年「靺鞨侵入」

140年「柵を作って靺鞨侵入を防ぐ」

145年「春夏旱魃となり、(辰韓の)南地最も甚だしく民飢える」

173年「倭女王卑弥呼遣使來聘」

193年「倭人大飢饉、求食者千人余」

203年「靺鞨侵入」

208年「倭人侵入」

 145年の「南地」とは辰韓の南地だが、半島南端の倭人も同様に飢えただろう。193年、農地の乏しい新羅に、しかも弁韓を越えて倭の難民がこれ程押し寄せる事態は、より豊かな馬韓・北九州へ難民が更に大挙流入したと考えられる。北九州への難民はまず同系の倭国を頼っただろうが、膨張するとその周辺の在来倭人を追い払っただろう。その結果北九州・九州内陸部・一部本州で「半島系の倭人が列島に流入して列島在来倭人の間で倭国大乱となった」可能性が考えられる。

ここで注目されるのは、飢饉の記事に囲まれて「173年、倭女王卑弥呼遣使來聘」(三国史記、前出)が登場することだ。卑弥呼については第2章で詳しく検討するが、倭国大乱(160180年頃)を収拾するために170年頃卑弥呼が共立された、しかし収拾には尚10年を要した、と考えられる。その間の173年の卑弥呼の対辰韓(後の新羅)外交は単なる儀礼外交ではなかっただろう。北方からの圧力や飢饉で半島倭人が難民化したこと、難民が列島へ流入したり半島の倭によって積極的に列島開拓地に送り出されたりした、卑弥呼はその受け入れ側(又は拒絶側)だったとも想像される。これには前節の「後漢が漢の遺民を守る」との政策を実行したことが参考になる。

 

● 倭国大乱の収拾後「半島の倭」は失われた 

倭国大乱は180年頃にようやく収拾された(魏志倭人伝)。半島の倭国は支配域を九州内陸部にまで広げ、半島の倭人を盛んに列島の新支配地に入植させた可能性がある(天孫ニニギの日向への天降りなど第3章)。

一方、半島ではワイ・韓の南下に加え、楽浪郡(後漢)から帯方郡(魏)への交代に伴う混乱が半島の倭に更なる圧力を加えた。

魏志韓伝

「この後(220年以降)、(半島の)倭と韓を(魏の)帯方(郡)に帰属させた。」(前出)

「帰属」は「倭」が無くなったことを意味しないが、倭国は根拠を北九州に移動させて、その後半島の倭は無くなった。別の史料でそれが確認できる。魏の使いが倭国に至る道行き記事だ。

魏志倭人伝(前出)240

「(帯方)郡より倭に至るには、海岸を水行して韓国をめぐり、南東し、其の北岸狗邪韓国に到る、七千餘里、始めて一海を渡る、千餘里對馬国に至る」

239年卑弥呼は遣魏使を送ったが、「翌年魏の使いが詔書・印綬を奉じて訪倭した」とあり、この時の報告がこの文章と考えられている。後漢書や三国史記が「半島の倭」と記した半島南端を通りながら一言も「倭」に触れず、逆に「狗邪韓国」という韓人の国を思わせる国に触れている。倭人が残っていたかもしれないが「倭(国)」は既に半島には無かったことを示している。

従来この文章の「『其の北岸』とは『倭の北岸』の意味で狗邪韓国は倭国の一部」とする解釈が有力だった。これは「倭国の極南界の倭奴国」(後漢書57年条)と組み合わせた解釈だ。しかしこれら二文は時代が違い(57年と240年)、そのあいだに上述した「帯方郡が220年以後に(半島の)倭と韓を帰属させた。」(魏志韓伝)という史実が入る。従って「(半島の)倭と韓が帯方郡に帰属させられた後(220年〜240年の間に)、半島の倭は無くなりそこに韓人系の国ができた」と解釈できる。その根拠の一つとして注目すべきは文中の「至る」と「到る」の使い分けだ。目的地の倭国・対馬には「至る」とし、狗邪韓国には「到る」としているから「(倭の北岸)狗邪韓国に至る」の意味ではなく、「(帯方郡より半島西岸を南へ、半島南端を東へ)水行して、其の北岸(左舷が)狗邪韓国に到る(時)、、、始めて一海を渡る」と括弧を補った意味、即ち「渡海行動を起こすべき地点を示した」と取れるからだ。

  結論として「240年時点では、朝鮮半島には倭(国)は無かった」と解釈できる。半島の民族間の玉突きの様な南下の結果として半島の倭人が同様大挙南下して海峡を渡り、列島に押し寄せた可能性が高い。倭人にはそれを可能にした渡海能力があった。例えば、

三国史記 新羅本紀 AD14年条

「倭人兵船百余艘を遣わし、海辺の民戸を掠(かす)める」 

その結果「半島の倭」が失われた。以後、倭(国)・倭人は列島のみを領域・居住域として発展を遂げてゆくことになる。

 

● この時代の年表  160239

 

 

 

 

 ● 記紀の神話「アマテラスとスサノヲ」 神代

2世紀頃までの倭」について「中国史書」の記事を紹介した。では、国内情報である「記紀」に対応する記事はあるだろうか? 2世紀頃と言えば弥生時代であり、記紀では歴史以前の神話の時代だ [17]

記紀の神代 (要約)

「昔、陰陽未だ分かれず(紀)、、、天地が開け始めた時高天原に神々が生じた(記)。伊奘諾(いざなぎ)・伊奘冉(いざなみ)が天の浮橋からオノコロシマを創りそこに降り立って国生みをした(記紀)。その後、伊奘諾は生める三柱、天照大神(あまてらすおおみかみ、以下アマテラス)・月読尊(つくよみのみこと、以下ツクヨミ)・素戔鳴尊(すさのをのみこと、以下スサノヲ)にそれぞれ「高天原」・「滄海原潮」(一書では「配日知天事」)・「天下」(一書では「滄海之原」)を支配させようとした。アマテラスは直ぐに天上(高天原)に行った。スサノヲは任地(天下)に行く前の挨拶と称してアマテラスの行った高天原に押し入った。アマテラスは国を奪われると恐れ、曲玉と交換で剣を与えた。しかしなおスサノヲは乱暴狼藉を働いたため、アマテラスは天石屋戸の中にこもってしまった。スサノヲは高天原から追放され天降って出雲に到った。出雲国で大蛇を退治し、そこで結婚して宮を建てた。その子孫大己貴命オオアナムチ(一書では大国主神、大物主神)は、因幡の白兎を助けた後、過酷な試練を与えられたり、娘のスセリビメと様々な宝器を手に入れ、スサノヲから大国主神の称号を与えられた。その後、多くの子孫を残し、国造りを行って国土を完成させた」 

日本書紀は神々の造った世界を3領域「高天原」「天下」「滄海原潮」に分けている。スサノヲの委ねられた「天下」は「葦原中国(あしはらのなかつくに)」や「出雲」を含むと読めるから日本列島を指すと考えられている。アマテラスに委ねられた「高天原」は「神々の住む天界」、ツクヨミに委ねられた「滄海原潮」とあるが名前から「日に対する月」「黄泉(よみ)の国」で、「高天原」と対をなす想像上の世界と考えられている。

  [17] 「日本書紀」   続日本紀720年条に「一本舎人親王(天武天皇第3皇子)勅を奉り日本紀を修す」とあり、正式名称は「日本紀」。詳細は「参考文献」の項参照。

 

● 「高天原」とは? 神話と歴史の境界     2013.11 追加)

古事記は冒頭で「天地のはじめ、高天原に神々が生じた」とあり、「高天原」は神々と一体である。神々が生じ、集い、天降る想念上の存在である。一方、日本書紀は冒頭に「陰陽思想」と重厚な「天」があり、三界が定まり、支配者が任じられる段になって「高天原」の呼称が初出する。「高天原」が「葦原中国」と対比するような領域として登場する。恐らく、古事記の方が古形で素朴な神話と呼称であろう。

前節の要約で分かるように、アマテラスもスサノヲも高天原で生まれた訳ではない。「スサノヲはオノコロシマで生まれ、島から出て列島で苦労して国造りをした。列島の支配を親からまかされた」、これが素朴な伝承で史実でもあろう。一方、「アマテラスはオノコロシマで生まれ、高天原の支配を親からまかされた」、そこまでは、対比として素直であり、素朴な伝承であろう。

しかし、その高天原神話の最後部に突然 アマテラスが「スサノヲの支配する葦原中国は我が子孫の支配する国である」と一方的に一族を次々に列島に派遣する。いわば侵略戦争だ。侵略の歴史を元来の高天原神話の最後に付け加えて神話化することで正当化した可能性がある。

この視点は歴史と神話の境界問題として普遍的である。歴史の観点からすれば「歴史の前には歴史がある。更にその先人知超えた神の世界とするのは様々な動機がある。例えば、@薄れる記憶の伝承化・共有化、A王権の装飾化・ベール化、B権力構造の固定化などだ。特にB権力構造の固定化とは、「歴史上の争いの結果を神話化して、子々孫々までその関係を固定化しようとする」という時の常套手段として使われる。

 

 「高天原はどこか?」(この数項、2010.11 更新)

そこで生ずる疑問が「神話では、天降りは高天原から、とされているが、前述の『最後部』には歴史的に具体的な出立地があったのではないか、それはどこか?」という疑問だ。

「高天原はどこか?」の問いに「神話の場所を比定するのは意味がない」とするのは正しくない。「高天原」は神々の住む想像上の世界だが、人々の移動・移住と共に祭場も移動し、神々も移動する。神々の移動を神話から知るとそれを信奉した人々の移動が知れる。まして、父祖を神格化した神話は特定の場所を示唆する場合が多い。 ヒントになる記述がある。

日本書紀八段一書(四)

「(スサノヲが向かった高天原で)スサノヲの行いがひどかったので、諸神は、、、遂にスサノヲを追放した、この時スサノヲは新羅国に降り、曾尸茂梨(そしもり)に居た、、、そこから船で出雲へ行った」

同一書(一)

「スサノヲは天から出雲に降りられた」

前掲と併せ読むと、「スサノヲは島(オノコロシマ)から出て、滄海之原の支配域(一書、また中国史書にある海峡倭国の海原の島)から、高天原を経由して新羅に降り、出雲に降りた」となる。この順路の内、「各経由地は現実世界に該当域が見つかるが、途中の高天原だけが想像上の世界」とするのは整合性がない。そこで、神話の「海原の島と新羅国の間に立ち寄る所、高天原」とは前述の「半島の倭国」と考えると一貫した歴史解釈となる可能性がある。そこで「高天原とは半島倭国である」を仮説として検討する。

 

● 「高天原」に擬せられた半島の倭

前述したように、中国史書は倭の領域として「倭は海中の島々(漢書・後漢書倭伝)と、朝鮮半島南端にある(後漢書韓伝)」と2領域を示している。対応する日本書紀では3領域として示されている(神代)。その一つ「天下」は日本列島であるから中国史書の「海中の島々」と一致する。ではもう一つの「高天原」は中国史書に示される「朝鮮半島の倭領域」であろうか、これを検討する。

(1) はじめに断るが、「朝鮮半島に高天原があった」ということではない。「半島の事績を高天原神話に組み入れた人々が居た」という意味で以下この「仮説」を検討する。便宜上「半島の倭領域」を「高天原」と記すことはあるがその意味である。また後述するように、高天原神話は半島倭人の存在より古く、半島倭が高天原に結びつけられたのは、神話に加えられた何回かの改変の最終段階で、内容的にも最後の部分(天孫降臨とその先駆)だけ、と考えられる。

(2) まず重要な事実は上述した通り「朝鮮半島南端に倭があった」という史実だ。

(3) 「天下(日本列島)」の支配を委ねられた神話のスサノヲとは漢書にいう「海中の倭人」に属すると考えられる。その海中の倭人が侵入したがった場所と理由があるとすれば、それはもう一つの倭領域「進んだ文化や鉄(剣)を持つ半島南部の倭領域」(魏志韓伝)を反映している可能性がある。「韓領域」でなく「倭領域」と解釈した理由は「スサノヲはアマテラスと姉弟」とあり、同系倭人の領域と示唆(神話)されているからだ。

(4) 「半島の倭」が先んじて漢や韓の文明や鉄に接したのは地理的な近さによる。従って、続いて文明に接しようとした倭人がいたとすれば「列島の倭人全体」ではなく、「半島の倭人に地理的にも血脈的にも最も近い倭人」すなわち「壱岐・対馬周辺の海原出身の列島倭人」が第一の候補として挙げられる。神話の中で、スサノヲは列島支配を委ねられたが一書では「滄海之原」とされ、スサノヲ一族の「海原 → 列島」の移動が示唆されているからだ。「海原から高天原に侵入して追い出されたスサノヲの神話」は、「海原の倭人と半島の倭人の対立」を反映している可能性がある。例えば既に挙げたが

三国史記 新羅本紀 AD14年条

「倭人兵船百余艘を遣わし、海辺の民戸を掠(かす)める」 (再掲)

兵船で新羅を襲う倭人とは海原の倭人、また海辺の民戸とは新羅のみならず半島の倭も含まれている、と考えられる。「弁辰・倭は混住していた」ことが後漢書韓伝に示唆されているからだ(前出)。

(5)  神話で「スサノヲが曲玉との交換でアマテラスから剣を得た」と表現されている。これは列島産物(勾玉)と朝鮮半島に産する鉄や鉄器との交易の史実、「韓から倭への鉄の流れ」(後漢書韓伝、前出)を反映していると考えられ、更に「海原倭人はその交易を押さえ、アマテラス一族は半島側で、スサノヲ一族は列島側で鉄などの交易を押さえていた」と解釈できる。

(6) 倭人の中で海原倭人や半島倭人は稲作適地が少なく半農半漁地域だったと思われる。しかし、青銅器に代わる鉄(剣)を得て強勢となり、更に鉄が農業(開墾)でも威力を発揮することを知って豊かさへ目覚めた。それを示す記述が日本書紀にある。

日本書紀神代第5段一書11 (要旨)

「アマテラスは天上に在ってツクヨミを葦原中国(あしはらのなかつくに、列島)に行かせ、その地が米・魚・粟・蚕などで豊かであることを知って喜んだ。」

「半島倭人」が農地を求めて移動「半島 → 列島」を志向する兆しを示唆している。

(7) 後述するように、神話では高天原のアマテラス一族が葦原中国へ派兵と移住を繰り返している。史料でも半島の倭は漢・韓に圧迫されて失われているから、半島から列島へ移動・移住したと考えられる。神武天皇の祖ニニギが高天原から日向に天降りした後「この地は韓国(からくに)に向かいて佳き地」と言って宮を建てた、とあり、ニニギの出立地が同じように「韓国(からくに)に向かいて佳き地(半島の倭領域)」だったこと、即ち「朝鮮半島から列島への移住」の神話化を示唆している、と解釈できる(第3章参照)。

以上、「神話の『高天原』と、歴史の『朝鮮半島の倭領域』は多くの点で相似している。もとより、神話と歴史は異なる世界であるが、この相似は「仮説」が正しいことを示唆している。本章は引き続き検証を進める。

       

● スサノヲ一族の国造りは北九州でも  

スサノヲは出雲に天降り、子孫オオアナムチが建国した、とされる。

日本書紀 神代上八段

「大己貴命と少彦名命は力合わせ心一にして天下を造った、、、その後未完成の所を大己貴神が独り能く造り巡り、遂に出雲国に到る、、、

「スサノヲ系の国造りは出雲から始めて出雲に戻って、列島全体の国造りが完成した」と述べている。「国造りの完成」に北九州も含まれていることは間違いない。その根拠は次節以下の「アマテラス系とスサノヲ系が葦原中国で共存した」とする神話があるからだ。倭奴国が建国される前の状況として北九州に海原系が国造りしたと解釈できる。

 

● アメノホヒの天降り  (以下2節、201012 追加)

 「三界の支配権」を犯したスサノヲの追放で「高天原」は静かになり、スサノヲの天降った「天下」も前節のように子孫オオアナムチの国造りが完成した。神話は完成したかに見えたが、意外な展開となる。

日本書紀神代(要旨 つづき)

「アマテラス一族は葦原中国を平定するべく天穂日命(アメノホヒ)を往かせた。しかし、此の神侫(みだりに)オオアナムチに媚(こび)三年に及ぶも尚報告しなかった。更に第二陣としてその子を送ったがオオアナムチ一族と結婚しやはり復命しなかった」 

この神話はいくつかの点で不審だ。まず、今度はアマテラス側の「三界の支配権侵犯」に見える。その上アマテラスの子アメノホヒとその子はアマテラスの意向に抗している。また、スサノヲ一族はアメノホヒらを「父祖を追放したアマテラス一族」として拒絶していない。

これらの「不審」を貴重な情報ととらえて歴史解釈を試みる。

 

● アメノホヒの国は倭奴国か?

前節で神話は「アメノホヒはアマテラス系として初めて高天原から列島に移住した」と述べている。これと関係しそうな歴史事績を選ぶと「倭人の建国」の初出として次がある。

後漢書 57年条 

「倭奴国、貢を奉り朝賀し、使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武は賜うに印綬を以て」(前出)

この記述が神話と対応するかどうか検討する。

(1)  九州の倭奴国を「倭国の極南界」とする「倭国」とは半島倭を含む。その「倭国の倭奴国」が後漢(洛陽)に遣使した。これはそれまでの「楽浪郡に通じた」とはレベルが違う。遣使して漢の威を借りようとする外交術と、そこに至る知識、語学力を持っていたということになる。当時、これらは漢(楽浪郡)・韓を通じて得たと考えるのが自然だ。従って「倭奴国は漢・韓の影響を受けた半島系倭人の国」と考えられる。

(2)  半島の倭人が北九州(葦原中国)に移住・建国すれば在来の倭人と争いになるはずだが、後漢から「金印」を受けている、ということは周辺と大きな争乱はなかったと考えられる。これは神話の「アメノホヒはオオアナムチ(出雲系)にこびた(平和裏に住み分けた)」の表現と対応するように見える。列島倭人にとって半島倭人は(少数ならば)文明の伝達者として歓迎された可能性がある。ちなみに日本書紀では「アメノホヒは出雲系諸氏の祖」とされている。これは「アメノホヒ(アマテラス系先陣)とスサノヲが『共存』していたが、アマテラス系の後陣が両者を北九州から出雲に追いやった結果」と解釈する。

(3) 「倭国の倭奴国」が倭国を差し置いて後漢(洛陽)に遣使したことは、神話の「高天原に復命しなかった(高天原の意に反した)」と対応するように見える。平和裏の入植、豊かな未開拓林野(鉄斧で初めて開墾可)、温和な気候などで倭奴国は母国(半島)を頼る必然を失ったと考えられる。

 以上とて示唆にすぎないが「アメノホヒの国は倭奴国」を「有力な仮説」と考えたい。

 

● 倭国大乱と国譲り

日本書紀にはよく知られている「国譲り」神話がある。

日本書紀 神代第九段(要約)

「アマテラスらは、弟スサノヲの国造りした国土は自分の孫ニニギ(古事記では最初子のアメノオシホミミ、のち孫が生まれてニニギに交代)が治めるべき国であると宣言し、まず先発の一族を派遣し、スサノヲの一族を力ずくで屈服させた。スサノヲの子孫オオアナムチ(大国主神、大物主神)は自らを祭祀することを条件に葦原中国(列島)をアマテラス一族に譲ることを承諾した(第九段)」

肉親が苦労して開拓して完成させた国を一方的に奪う、という不条理が国の原点だとする神話に違和感があるが、何らかの史実と関連あると考えられている。そこで「半島倭」の仮説を延長し、「『国譲り』とは半島の倭人と列島の倭人の争い=倭国大乱」とする仮説を検討する。

(1)  倭奴国の成功が半島の倭の南下を促したことは充分考えられる。ツクヨミの調査(前出)がそれを物語っている。

(2)  半島では倭人は後進被圧迫民族だが、列島では先進強勢民族として拡大できる。鉄器農具に適した開拓候補地が自由に入手できた可能性がある。スサノヲ系が半島から得た鉄器で在来倭人に出来ない開墾地を開き、その後に半島系(高天原系)は更に多くの鉄器を以て未開拓地を開いて最初は住み分けた、と想像される。

(3) 「住み分け」は初期段階のみで、半島情勢の緊迫によって半島倭人は大挙南下せざるを得なくなり、その量が限度を超えてスサノヲ系や在来系倭人と争いとなった、と考えられる。

(4)  魏志倭人伝では「倭国大乱」とあり「内乱」であり「倭人同士の争い」だ。当時の「倭国」は魏や韓から見れば半島の倭が近いから「半島の倭人同士の争い」だった可能性も否定できない。しかし、大乱収拾後まもなく半島の倭自体が消失しているからこれは説得性がない。

(5)  列島の倭人が(スサノヲのように)半島に押しかけ、半島の倭人と争った可能性もあるが、これも前項と同じ理由で説得性がない。

(6)  同様に「列島内の倭人同士の争い」だった可能性もある。従来の定説はこれだ。この場合は「鉄器を持った勢力対持たざる在来倭人勢力」とも考えられてきた。しかし、これは「倭国大乱(国譲り)」前に既に決着があって、「スサノヲ系(多少なりとも鉄器を持っていた)は列島中に国々を造り巡って完成させた」と記紀は記している。

(7)  「多少なりとも鉄を持っていたスサノヲ系から国譲りを受け得た新勢力」とは「より多くの鉄を持つ半島の倭」しかあり得ない。

 以上から、倭国大乱とは「半島の倭と列島の倭の争い」であり、その原因は「半島の倭の列島への南下」と解釈するのが妥当だ。その結果「スサノヲ系が負けてアマテラス系へ国譲りした」とする神話になった、と考えられる。

 

● 卑弥呼はアマテラスか?

倭国大乱は卑弥呼の共立で和解・収拾された。この史実を日本書紀の神話で補完してみると、対立とはアマテラス一族とスサノヲ一族であり、その両陣営を和解させられる人物卑弥呼と宗女台与は両陣営のいずれでもない第三者、例えば故地海原で共通の祖先を祭る「ツクヨミ系の祭事者」である可能性が考えられる。少なくも大乱の一方の当事者(政事王)アマテラスであるとは考えにくい。「アマテラス(政事王)≠卑弥呼(祭事王)」と解釈される。

なお、「半島の辰(弁辰・辰韓)の祖にアメシウ氏、ヒミシウ氏という一族が居た、との記録があり、これが列島に渡ってアマテラス一族、卑弥呼一族となった」とする説があり本章末で紹介するが、結論としてはこれを否定する。

 

● 海原系から出雲系へ           

倭国大乱と国譲りの関連を検討してきた。日本書紀とほぼ同様の国譲り神話を、更に情緒豊かに記している古事記の記述を示す。カッコ内は筆者追記。

古事記 国譲り(要約)

「ただ僕(あ=大国主神)が住みか(神殿)は、天つ神の御子の天の日継知らしめす、、、天の御単(みす)の如くして(政事宮殿のように)、底石根(いわね)に宮柱ふとしり(太く)、高天原の氷木たかしりて(屋根の交叉する棟木を高くして)治めたまはば、、、僕(あ)は、、、隠(かく)りはべらむ(立派な神殿に祀ってくれるなら、自分は引っ込もう)。また、、、(子の)事代主神、、、仕え奉(まつ)らば(祀らせれば)、僕(あ)が子等百八十神は違(たが)う神はあら(自分の子を祭祀者にすれば、一族も文句は言うまい)

一言でいえば、「政事権の宮殿の如き立派な神殿を造り、祭事権を子に認めるなら政事権は譲ろう」というものだ。記紀はアマテラス系(半島高天原系)がスサノヲ系(列島高天原系)に国譲りを強要して認めさせた、としている。

80年頃倭国は統一したはずなのに、なぜアマテラス系とスサノヲ系は争ったのか? それは大乱前の倭国は半島高天原系だけを「点と線」でつないで統治した実質スサノヲ系との「住み分け」だったと考える。その王は「倭国王」を自称して中国に遣使したが統一を認められた形跡がない。その後、半島からの大量の流入で「住み分け」では足らず、今度は「面の支配」にしようとして大乱が起こり、海原系・スサノヲ系が負けて祭祀権の留保(卑弥呼共立)を条件に支配を受け入れた、と解釈される。

スサノヲ系は北九州では国譲りしてアマテラス系の支配下となり、残りは出雲を中心にまとまったようだ。しかし、出雲でも国譲りをしなければならなかった。その根拠は、出雲地方にホアカリを祖とする氏族が多いという。ホアカリはニニギの兄、天孫だ。国譲りを勝ち取った側だ。ホアカリ一族が出雲の新政事権者として送り込まれたのではないか。記紀に書かれていないが、国譲りを成功させたのはニニギに先んじて天降りしたホアカリの可能性があるのではないか(第三章で検討する)。

 

● 「高天原」 まとめ

    「半島の倭」は失われた。失われたからこそ伝承は神話化され、元々の高天原神話に追加された。そのような追加が何層にも重なって「高天原」神話は出来上がったと考えられる。素材まで遡ると縄文の神話・大陸の神話、始祖神話など様々な断片が入り混じり分析は不可能だ。ここでは物語りの形成を三段階に捉えて試案としたい。

(1)     「高天原」は元来の意味は「海原を支配する天」。「海原倭人の神話」では海原の天候を支配し「島生み神話」の神の居る「天」を意味した(古事記)。島の高台の原に神殿を設け、神々を招請して海の安寧を祈った。それが元来の神々の集う「高天原」であり神の「天降る」霊場だった。「天」と「高天原」は一体で同義語だった。古事記では「まず高天原ありき、そこに神々が成り出でた」としている。海原から半島に植民したアマテラス系もこの高天原神話を共有していた。

(2)     「高天原」に第2の意味「海原の島々」が付け加えられた。海原倭人が「海原から列島及び朝鮮半島への入植」後、そこに霊場を設け故地の神を招請してこれを「高天原(故地海原)からの天降り」とした。神無月(かんなづき)伝説もその一つだろう。その後、神々に父祖を加え、「父祖が海原から現在地(列島・半島)に植民した故事」を「高天原から天降り」と神話化した(スサノヲ系など)。

(3)     スサノヲ一族はこの第2の意味の神話「高天原(海原)から王者として列島に天降り(天神降臨)、国造りを成功させた」という神話を持っていたはずだ。その一部が出雲系祭事王に始まる大和祭事朝廷(後述、第三章)を通じて古事記に伝えられたと思われる。日本書紀では余り採用されていない。

(4)「高天原」に第3の意味「半島の倭」が加えられた。第1・第2の「高天原神話」を共有していた半島の倭人は海原倭人との争いを経て列島へ移動した。列島移動後に「失われた半島」の故地伝承を神話化して第3の意味「高天原(半島)から父祖は列島へ天降った」を加えたと考えられる。 特に「アマテラスとスサノヲ」の神話は「半島の倭の正統性」と改変解釈された。この改変神話は「倭国」と「大和朝廷」とに共有され、主流として生き残り、美々しく飾り立てられた。    

(5) 倭国はこの第3の意味の神話「高天原(半島)から筑紫に天降り(天神降臨・天孫降臨)、スサノヲ一族からの国譲りを成功させ、葦原中国の平定を完了させた」という詳細な神話を持っていたはずだ。記紀編者はそれを入手していると考えられるが簡単にしか言及していない(第十章参照)。

(6) 天孫であるニニギは前項の「平定された葦原中国」を「支配する為に筑紫に天降った」とされる。前項と同じ第3の意味である。しかし、その一族は「平定されたはずの葦原中国(倭国)」を横目に通り過ぎて奥地の大和に移り住んだ。予定通りに行かなかったのだ。しかし、日本書紀の編纂時点では倭国は滅亡しているから「予定通りニニギが天孫降臨(第3の意味)の主流」と位置づけされている。

   

● この時代の年表  -50239  

日本書紀の以下の記述を時代・場所を推定して表中の黒太線としてトレースした。

(1)  「島生み神話」(記紀)は「海中の倭人」(漢書地理志)の記録から「対馬などを含む北九州の島々の神話」と解釈し、九州域に黒太線を置いた。

(2)   原初の「高天原」は「想像上の天上の世界」であろうが、「スサノヲの高天原侵入譚」は半島南端の事績の神話化と解釈し、以後「ニニギの天孫降臨譚」までは半島南端事績とした。

(3)  「ニニギの天孫降臨」は「高天原による葦原中国平定と国譲り後」であるから、「倭国大乱終結後」(200年頃、魏志)と解釈して倭国南部への移動黒線で表わした。

(4) ニニギ〜神武は、更に倭国南部〜大和東征へ向かう(第三章)。

 

  

 

● 倭人は呉の太伯の後裔か?     (2011.8 追加)

古代中国の呉国に由来する「呉」はなぜか日本人に親近感を感じさせる。「中国」と同義語のように使われている。たとえば「呉服」などだ。それ故か、古代史では次の史料が特別の興味を引く。

魏略倭伝

「その旧語を聞くに(訪倭した魏使が倭人から聞いた伝承に)、(倭人は)自ら太伯の後(後裔)と謂う」

ここで「太伯」とは史記に、

史記 呉太伯世家

「呉(会稽の北、上海近く)の太伯(周の太王の子)は、太王が末子を王に立てんと欲したので、文身断髪して王位を争う意志のないことを示した、千余家が帰(服)し呉句(後の呉王朝)を建てた」

とあり、「呉の太伯」である。言い換えれば「倭人は呉王族の後裔と自称している」(魏略)という。魏略は続けて

魏略倭伝(つづき)

「昔、夏后(=夏王朝、紀元前2116世紀)の少康(6代帝)の子、会稽に封じられ、断髪文身して蚊龍(こうりゅう)の害を避けた。今倭人また文身、以って水害を厭うなり」

と解説して、呉(会稽北)に文身断髪の風習があることを示している。列島の倭人と呉・会稽地方が「文身」という共通点を持つだけでなく、倭人には呉の出身という伝承があったことを示して、何らかの関係があった可能性を示唆している。

 

● 「呉の倭人」の移動説      (2011.8 追加 2014.8 加筆)

佃収は「倭人は呉をルーツとして北上し、朝鮮半島へ、更に列島に来たことが文献で跡付けできる」として、その根拠を次のようにしている (次図参照)[18]

(1) 「倭人のルーツは呉(会稽北)だ」(魏略倭伝、前節)とした上で、

(2) 「論衡に『越裳白雉を献じ、倭人、鬯艸(ちょうそう)を貢す』(前掲)とあり、『越』と『倭人』は対で表現されている。一方、『越(会稽南)』と対にされるのは隣の『呉(会稽北)』だ。「呉は南隣の越(会稽南)との戦いに敗れ、北(東表、青島の西)に逃げた」(呉越の戦い、史記BC538年)。呉には倭人がいた。(1)の傍証となっている」としている。

 

倭人のルーツと渤海沿岸 佃収 星雲社 1997年 より

(赤字は原著に基づく筆者追記)

 

(3)「北に逃げた呉人集団には王族夫概の子孫や呉に居た倭人の一部がいた。これに辰(東表の国)の王族の一部(辰韓の祖となる)が加わり更に北に逃げた」(推測)。推測の根拠は以下にある。

(4)   「(逃げた先の)東表では辰の顕著なる者が安冕辰氵云(アンベンシウ)氏だったが、国を賁弥辰氵云(ヒビシウ)氏に譲った」(契丹古伝)[19]

(5)  これら倭や辰は春秋戦国時代に更に北上して燕(北京付近)に属した。「倭は燕に属す」(山海経)[20]

(6)    秦の統一で燕(と倭や辰)は遼東に逃れ(史記)、漢が秦をほろぼしたが(BC206年)、辰は遼東を守った(契丹古伝)。

(7)   「白狼水(大凌河上流=遼東の西)は、、、東流して倭城の北に至る、蓋し倭地人これに移る」(水経注)[21] とあり、倭の痕跡が遼東西にある

(8)   この後、辰は漢の圧力で二つに分かれて朝鮮半島を南下した。一方は渤海を渡り朝鮮半島西岸から弁辰となり(BC195年頃)、他方は鴨緑江を越えて辰韓となった(BC108年)。

(9)   「安冕(アンベン)は呉音でアンメンと読め、後の日本列島の神話に出てくるアメ(アメノオシホミミ・アメノコヤネなど)につながる、アメ族とよぶことにする。アメ族はBC195年頃朝鮮半島南端に移動し、前108年の漢の楽浪郡設置の頃九州に渡った、これが天孫降臨だ」(佃説)。

(10) また、賁弥(ヒビ)は呉音でヒミと読め、卑弥呼の祖と考えられる」(佃説)。

 このように、「呉の倭人は辰韓・弁辰の祖等と共に数百年移動し(追われ)続けて朝鮮半島から列島に到った」としている。

佃の分析は、基本的に文献を根拠にしているから説得力がある。ただし、史料的価値に疑義がある「契丹古伝」のみに依存している部分があり、その点からあくまで「一説」にとどまる(例えば遼東以前の「辰」)。しかし、「呉から列島に到る『倭人』の移動ルート(の一つ)」を断片的な「点」ではなく「線」として初めて明らかにした価値ある一説といえるだろう。次節で筆者の修正を加えた解釈と全体の評価を述べたい。

[18] 「倭人のルーツと渤海沿岸」 佃収 星雲社 1997]

[19] 「契丹古伝」 浜名寛祐 1926年 奉天ラマ教寺秘蔵の古書を写書研究した書「日韓正宗遡源」のこと。内容の信憑性には疑義も持たれている。 10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書。文中に「耶摩駘記(773年に来日した渤海国使の報告書らしい)に曰く、、、上古を探り先代を観、、、一に秋洲と曰ふ、読むで阿其氏末(あきしま)と做す」とあり古事記序文にある「探上古、、、明覩先代」と一致する部分があり、古事記・日本書紀を入手していた可能性がある。

 [20] 「山海経(せんがいきょう)」 中国古代の地理書。戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に執筆加筆されて成立した最古の地誌とされる。

[21] 「水経注」 北魏代の地理書、515年頃の成立

 

  「遼東の倭」のその後 筆者理解       (2011.8 追加) 

呉や辰の王族が遼東を経由して朝鮮半島の建国に関与したことは史実であろう。しかし、その一部が更に南下して列島に倭国を建国した、とするのは無理がある。以下に検討する。

(1) 「呉王族と百済には何らかの関係がある」ということは佃の引用する資料にも見える。

広韻

「風俗通(風俗通議)に云う、呉公子夫概(周王の子で呉の始祖太伯から6代闔閭(こうりょ)王の弟)、、、扶余を以って氏と為し、今の百済王扶余氏なり」

呉の一部王族が遼東に居る頃(前節)、扶余族(ツングース系)の一部を支配するか、漢の圧力をかわす為に扶余族が呉王族を担いだ、などで呉王族と扶余の関係ができたと思われる(第四章「二つの百済」参照)。

しかし、これは呉人ではあっても倭人ではない。「呉の太伯が倭人の真似(文身)をした」(史記、上述)との記録は「これら王族は倭人ではない」と解釈できる。呉の一部に居た「倭人」は種族名であって「太伯の後」(呉王族との関係)の根拠は伝わっていない。

(2) 「呉や辰の王族と関係がある扶余族が百済を建国」の可能性はあるが、倭国の祖を呉王族(太伯の後)とする根拠は弱い。佃説は「安冕辰氵云 (アメシウ)氏・賁弥辰氵云(ヒミシウ)氏も辰人で、倭人も『太伯の後』だから同根だ。倭人のアメは即ち高天原のアメ族だ、ヒミ族は卑弥呼の祖だ」とする。しかし、相当無理があり更なる論証が必要だ。なぜなら、辰氏は東表の出であり呉の倭人ではない。アメシウ氏・ヒミシウ氏などは史料として疑義がある契丹古伝のみに依拠し、しかも東表関連記事だけに記されているだけだから、遼東・百済まで敷衍できるか疑問である。半島に卑弥氏が存在したとしても、それと呉王族や卑弥呼とを結ぶ根拠は同書にもない。

(3) 中国では「文身」は南方特有の未開習俗の象徴「=倭」とみなされた。周代の知識だ。それが漢代では既に開化されて習俗がなくなっていたと考えられる。なぜなら「倭人」といえば極東の倭人しか意味しなくなっているからだ。半島の諸族と半島南端の倭人は風俗(文身)が違うことが魏志韓伝に強調されているから、陸ルートの倭人には文身の習俗が失われていたと考えられる。魏志韓伝の「倭人」は陸ルートの倭人ではない。

(4) 「稲作技術」の流れかつて遼東半島→北朝鮮周りの陸路ルートが考えられていたが、稲のDNAや年代測定により、現在は、江南→日本→朝鮮(南部)の海上ルートが支持されている。稲作の伝播は列島ではBC3000年頃(焼畑陸稲、熱帯ジャポニカ)、水田はBC1600年頃、南朝鮮では陸稲・水田(温帯ジャポニカ)ともBC1600年頃という。いずれに依っても佃説の倭人移動よりも相当早く、ルートも稲作に適さない遼東地域を通る陸路ではない、と考えられる。陸ルートがゼロとは言わないが、「稲作倭人は主として海ルート」と考えられている。

(5) しかし「倭(国)は大伯の後」は正しいかもしれない。即ち、「(海ルートの)倭人の領域(半島・九州)に倭国を建てて倭人を支配したのは(陸ルートの)呉朝の末裔(呉人)だ」と。支配層なら少数派でも有り得るからだ。しかしもしそうなら、倭国と辰韓・弁韓は神話(王室神話、島生み神話など)を共有しているはずだが、その徴はない。記紀には痕跡すらない。アマテラス神話の根幹部分は「アメシウ氏の九州到達(前108年頃、佃説)」よりはるかに古いとみられる。やはり佃説の「安冕辰氵云 (アメシウ)氏のアメはアマテラスのアマとおなじだ」とするのは無理だ。

(6) 魏略の「倭人の伝承(太伯の後)」がある以上、さまざまな可能性(定性的)に研究の余地があるが、今のところ佃説も仮説の域を出ない。「海ルートの呉人が倭人のルーツ」説もあるが更に仮説に留まる。よりはっきりするまでは本章で前述した「海原の倭人から出た半島の倭人が倭国を建国した」と解釈するのが(定量的には)妥当だ。

 結論として平凡だが「太古から何波にも亘って南方から来た海原の倭人は『遼東の倭』の一部や海ルートの後続倭人・稲作倭人・南方縄文人・北方縄文人と伝承を包み込みながら列島へ、半島へ発展し、倭国を建国した」と考える。

 

 ● 倭国と日本列島の関係(まとめ)

日本列島とその近隣諸島に居住した人々には北方の狩猟民、広葉樹林帯の採取民、南方渡来の稲作民、やはり南方系漁民など多様にいた。それらを総称して中国は「倭人」としたが、その具体的な認識は楽浪郡に近い「半島や海原の倭人」に限られていた(文身など)。倭人の一部でしかない海原倭人の、更に周辺の一部族に過ぎない朝鮮半島の倭人が中国文明圏への地理的な近さから逸早く開化され、諸民族に揉まれて戦闘を知り列島に比較して強勢となった。後続して半島を目指した海原倭人を押し返し、海原の諸島を奪い九州にまで勢力を広げ、それが倭国となった。その後の半島では北方民族の南下があり、半島の倭人は圧迫されて九州へ大挙移動し、在来倭人との摩擦で倭国大乱になったと考える。倭国は列島で支配を確立し、半島の倭国は姿を消した。新たな支配者は「海原神話の高天原とアマテラス」の最終部分を改変して「支配者の天降り神話」として伝承した、と考える。

 

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