倭国の終焉と日本 高橋 通
序 言
40年前の第一次古代史ブームの時に、筆者も「倭国」に興味を持ち始め、権威ある諸説を読み漁ったが納得できる倭国の姿を得ることができずに興味も失った。しかし、25年前に「九州王朝説」をはじめとする新たな諸説・反論などに瞠目し、「纒向古墳」の解明も進み、少しずつ、少しずつ霧が晴れ、自説も加えて今ようやく納得できる「倭国」像を持つことができた。古代史のおもしろさは、未だに新たな解釈で霧が晴れつつあることである。
高橋 通
2007年10月
目 次
序 章 論 点
第1章 倭国の草創期、西暦3世紀前半まで 倭国、小さく統一
第2章 倭国、拡大して大乱 卑弥呼は九州 邪馬台国は九州外
第3章 3世紀、纒向へ神武参加 大和と九州の祭政二重構造へ
第4章 4・5世紀 倭国/大和連携による列島統一と半島征戦
第5章 6世紀の倭国 中国南朝を後ろ盾にするも、東アジアが混迷
第6章 倭国、外交の失敗と内向 大和、模倣と自立模索
第7章 白村江の戦い 倭国・大和の最後の葛藤、不明な個人の思惑
第8章 戦後の体制 二転三転する日本建国構想
第9章 日本建国と倭国の終焉
第10章 倭国、なんだったのか
序 章 論 点 (目次に戻る)
本書は、倭国の初めから終焉までについて筆者の理解するところをまとめたものであるが、既に多くを御存知の方々の煩わしさを避けるために、ここに筆者の新たな論点を要約した。批判を問うところである。詳しくは各章をご参照されたい。
● なぜ、卑弥呼は「倭国王」でなく「倭王」だったのか?
倭人の「国」の萌芽は紀元前1世紀にさかのぼり(漢書)、「倭国」と認識されたのは紀元1世紀(後漢書)、「倭国王」が史書に出てくるのは2世紀のことである(後漢書)。(第1章)
その後大乱があり、女王卑弥呼が立てられ「親魏倭王」の称号を得たという(魏志)。卑弥呼はなぜ倭国を再統一したのに「倭国王」でなく「(親魏)倭王」なのか? それは「卑弥呼の女王国(九州)」の他に、「更に遠方(水行一月、大和か?)に(別の)女王の都する邪馬台国がある」と中国は認識し(魏志+魏略、大和岩雄・上野武等の指摘)、卑弥呼は倭国の一倭王としか認められなかったからである。中国の倭国領域に関する知見が前時代よりも拡大されたからである。
筆者がここで新たに指摘したいのは、後世の「卑弥呼は九州の邪馬台国に都する」という誤解の源は「魏志の誤解を招く記述」だが、もう一つ、「魏志を誤読した各時代の史書がそれを事実と追認・断定・踏襲をした(後漢書も含む)結果、事実がどうあれ定説化された」と筆者は考える。(第2章)
● 列島を統一して「倭国王」の称号を得た倭王珍とは誰か?
3世紀、大和の纒向に宗教都市と前方後円墳が出現し伝播してゆくが、その中核は諸豪族の政事王の上に共立された祭事王であった。九州倭国系の神武はあとからこれに加わり、崇神の代で大和の祭事王にのし上がった。一方九州倭国の政事王は、列島・半島に征戦を繰り広げた。筆者が「倭国の祭(大和)政(九州)連携二重構造」と考えるところであり、九州倭国系による倭国統一推進が祭・政で進んだ。(第3章)
宋書によれは、倭の五王讃につづく倭王珍になって「倭国王」の称号が中国に認められた。列島を統一したからであろう。統一となると、大和が何らか関係しないはずはない。倭王珍に比定される反正・允恭天皇の時代は天下泰平、征戦などなかった。その先代・先々代まで広げると、応神・仁徳の時代は動乱の時代、統一と関係ありそうな事跡はこれしかない。日本書紀によれば、応神は九州出身、応神・仁徳の成果は大和を制圧したことだ。では、「九州王であった応神らが東征して大和を制圧し統一を成したのか(東征遷都説)」。いや、そうなら日本書紀はそう大書するであろう。神武を苦労して持ち出すまでもない。残るは、「応神らが王族か将軍であって、彼等を派遣した九州王(九州倭王)がいて、応神らが大和を制圧した(東征分国化説)から統一(倭国王)と認められた」に他ならない(東征分国化説)(次節参照)。
祭事王神功皇后(出雲系ともいわれる)による祭事権の再編遠征軍が九州で九州倭国の政事権と連携し、東征して大和の政事権を獲得した応神らが崇神系に代わって大和の祭事王も兼ねたと筆者は考える。この辺、征服戦争の激しさが無いのは、どちらも倭国系、どちらも祭事系だからであろうか。ここに大和は国の機能(政・祭)を満たし、今度は祭政二重構造ではなく、九州倭国は大和を分国として組み入れ、倭国統一(拡大倭国)を成し遂げた。それを反映したのが九州倭王珍の「倭国王」昇格と考える。(第4章)その結果、前方後円墳は最盛期を迎えると共に、その意味(列島内国力誇示)を失い、縮小過程に入った(国力の海外征戦振り向け)。
● 倭王武は前王まで続いた「倭国王」から「倭王」に格下げされた、なぜか?
倭の五王の最後、倭王武は倭国王になっていない、前王に比べて格下げされたのだ。なぜか、「この倭王武の衰退と雄略の隆盛が時期的に一致する」、このことが、真実を物語る。まず「倭王武と雄略は同一人物でない」と言える。そして、雄略大和の隆盛と九州倭国からの自立傾向を見て、中国は倭王武を先代の「倭国王」から一「倭王」に格下げしたと筆者は推定する。このころ中国は混乱し宋が倒れ、東アジアは各地も下克上の状況が生じた。半島の百済・新羅も対中国や対倭国で立ち上がり、伽耶を倭国から奪った(562)。列島では大和の雄略が応神以来の倭国の分国格から自立を始め、独立的一倭王と認識されたのであろう。その後も倭国内部にも磐井の乱や、これに乗じた継体の造反未遂もあった。(第5章)
● 多利思北孤の「俀」は「大委」か?
後ろ盾の南朝宋が倒れ、隋になると倭国は国名を「俀国」と改めた。従来「倭」の佳字を採ったとされる「俀」が、5世紀から7世紀まで連綿と使われた倭国の別称「大倭」(自称か他称か不明)に基づくことは疑いない。しかし、その王多利思北孤にとっては更に「大委」であり「大隋」に対をなす国名であったろう。
多利思北孤は隋に遣使し(607)、対等外交を展開した。これは、あるいは国内向けのデモンストレーションだったかもしれない。大和はこの時期、倭国からの独立をはたそうと、独自外交を試みた(607?)可能性がある。多利思北孤が意外にも一年にして俀国号も天子自称も撤回した裏には「列島の宗主権を九州に認め、大和の朝貢(独立)を認めない」ことで隋と妥協した可能性があると筆者は考える。(第6章)
● 隋が唐にかわると、多利思北孤は再び倭国天子を自称した なぜか?
高句麗遠征に失敗して隋が倒れたが、代わった唐も高句麗に苦戦した。そんな唐の風下では倭国が倭諸国・百済・新羅を仲間に引き込んで高句麗と対峙できないとばかり、倭王はふたたび天子を名乗り(法隆寺光背銘)、律令制度更新を自ら行い(年号など)、列島宗主権を形式的ながら維持し続けた(年号・評制度など)。もちろん唐には朝貢せず、疎遠になる一方であった。大和は遣唐使(小野妹子等619?・632)をしきりに送るが朝貢(独立)を認められなかった(旧唐書)。(第6章)
唐と対立した倭国は斉明の大和軍を引き連れて白村江に突入して行く。(第7章)
● 天智は大和の独立を宣言し、日本国と号するが、天武になって再び一倭王に戻った。
斉明の喪を理由に戦列に遅れた大和軍は独り戦力を保持し、天智大和は敗戦倭国からの独立を宣し日本国を号した。一地方名「日本」を国号に昇格させ、「倭」を一地方名である「やまと」の当て字として矮小化した事実に天智の姿勢をみる。唐はこれを認めず九州倭国を傀儡化し、壬申の乱で勝利した天武の大和を再び従えた。ところが、唐は国内事情と、新羅との戦いで破れたことで九州から撤退し、天武は棚ぼた式に倭国内の実権王者(倭王)となった。天武は「大和は倭国の嫡流である」というシナリオ(古事記)を基に嫡流倭国王をめざしたが道半ばで没した。(第8章)
● 倭国を併合によって継承した日本は「日本書紀」では九州倭国を抹殺した、なぜか?
文武は697年に日本国(大和)の天皇に即位し(続日本紀・三国史記)、702年に倭国を併合して新日本国(総国)の建国を宣しその天皇に即位した(日本書紀・旧唐書)。そして唐の認知を求めるべく遣唐使を派遣した。しかし唐は日本(大和)の「倭国嫡流」も「日本による倭国の併合」も認めず、「日本は倭国の別種(他国)」とし、ただ単に「倭国の滅亡」と認定した。「倭国を滅亡させたのは他ならぬ自分たち唐だ、その余は勝手にせい」と言いたかったのであろう。日本はそれを「日本書紀」に反映させ、「他国」である九州倭国の歴史に一切触れるのをやめた。そして、その後の焚書など、九州倭国抹殺は後知恵であろうが勝手で完璧であった。(第9章)
●
失われし半身
九州倭国が常に主役であり続けたはずもない。一倭国になりさがったり、断絶したり、また復活したり、幾多の消長を繰り返したであろう。それを明らかにするすべは大半が失われた。しかし、垣間見せるその姿には、国際感覚・論理性・合理性などがあり、大和の情緒・自然感・和の精神などとは対照的だ。それぞれが分担して補完してきたがある日片方が失われたに違いない。これからも少しずつ、少しずつ明らかになるだろう、それが楽しみである。(第10章)
(目次に戻る)
第1章
倭国の草創期、西暦3世紀前半まで 倭国、小さな統一 (目次に戻る)
● 倭・倭人
日本列島がまだ縄文時代だった紀元前11世紀に、「倭人が中国の周に朝貢した」という。これが「倭人(わじん)」の最も古い時代を記述したものだが、内容はほんとうだろうか。
「周時(紀元前1100年頃)、天下太平にして、越裳(えつしょう=ベトナム南部)、白雉を献じ、倭人、鬯艸(ちょうそう=薬草)を貢す。」論衡(ろんこう)[1] 巻8
「暢草(ちょうそう)は倭より献ず。」論衡巻13
「周時代にいう『倭人』は、黥面文身(フカなどをおどす入れ墨)するタイ族など中国南東部の種族をさすこともあり極東の倭人とは限らない」との説 [2] がある。確かに、次節で見るように漢代の記録では、倭人を広くとらえているようだ。一方、次次節で見るように倭人は朝鮮半島にもいたから、周時代の立国といわれる箕氏朝鮮 [3] の仲介の可能性などを考えると、列島/朝鮮半島の倭人から周に朝貢したことも満更在り得ない話ではない。
この史料をここで挙げたのは、ただ「倭」に関するからだけではない。本書の最後にでてくる「日本改号」と関係するからだ。
「倭国は自らその名の雅(うつく)しからざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。」旧唐書 [4](くとうじょ)東夷伝倭国条
なぜ、「雅しからざる」のか、それはこの字が古来文化程度の低い民俗を指す卑字だからである
[5] 。
[1]
『論衡』 後漢王充(おうじゅう; の編。自然観、人文、歴史、政治思想などが論じられている。この部分は漢代「尚書大伝」伏勝編 の転載という。
[2]
「倭人・倭国伝全釈」P4 鳥越憲三郎 中央公論社 二〇〇四年
[3]
周の武王は殷の末裔である箕子を朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、理想的な社会が保たれ朝鮮の始祖と言われた。近代以降においては、韓国・北朝鮮ともに檀君朝鮮の檀君を始祖であるとしている。
[4]
「旧唐書」 唐(618-907)の290年間、北宋 欧陽脩・宋祁編(945) 倭国伝に並んで、「日本国伝」が初出する。官撰書 後晋の宰相となった劉陶(887〜946)の撰修とされている。
[5] 倭(わ、ゐ)=したがう、ちいさい、みにくい、醜面 日本では倭を「わ」とするのが通例で、倭奴も「わど」「わぬ」とするのが通例。「正しくはゐ」とする説もある。
● 徐福伝説
史記(司馬遷)によれば、秦始皇帝の時代(紀元前220‐201)、方士(仙術士)徐福が不老不死の仙薬を求めて東海の地に到り、留まりて王となったという。この伝説が、後に倭国の位置認識に影響を与えたようだ。
「薺の人徐市(徐福)ら上書して言う、海中に三神山あり、名づけて蓬莱、方丈、瀛洲(えいしゅう)と曰う、仙人これに居る。請う、斎戒して、童男女と之を求むることを得ん。、、、、秦の皇帝大に説び、振男女(童男女)三千人を遣わし、之に五穀の種、種百工を資して行かしむ。徐福平原廣澤を得、止りて王となりて來(帰)らず。」「史記」秦始皇本紀(前212年)
「会稽(中国東部)の海外に東?人あり、20余国に分かれる。また、夷洲および?洲あり。伝えて言う、秦の始皇帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を連れて海に入り、蓬?山の神仙を求めるも得ず、徐福誅を畏れて敢えて帰らず、遂にこの洲に留まる。世世相伝承し、数万家を有す。人民時に会稽に至り交易す。会稽東冶県の人、海に行きて風に遭い、漂流して?洲に至る者あり。絶遠に在り、往来すべからず。」三国志呉書
日本各地(佐賀・和歌山・富士など30地域)にもまた徐福到来伝説が遺存するが、内外史料にそれを裏付ける記述はない。
ただこの伝説が、中国人に「中国東部の東方絶縁海中に知られざる温和な国がある」との認識を植え付け、それが後に示すように、邪馬台国の方角を九州の東でなく、南(中国東方海中)にあるがごとき魏志倭人伝の誤った記述を生んだとされる。
● 倭国のはじめ
紀元前1世紀、漢代事蹟の記録「漢書 [6] 」に次の1節がある。
「楽浪 [7] 海中倭人あり、分かれて百餘国をなし、歳時を以って来たり献見すと。(朝貢となっていない)」漢書地理志
「論衡(ろんこう)で既に御存知の黥面文身する漁民、即ち倭人が楽浪海中にもいるよ。」と言っているのだ。「倭人」を広く解釈し、黥面文身する漁民全般、タイ倭族も含むような表現である。また、倭人という未開種族が「国」をつくることの意外性を伝えつつ、「百餘国ではまだまだ統一国家とはいえない初期段階」というような伝え方である。
次時代の「後漢書」では、漢書のこの記事をうけて、
「倭は韓の東南の大海の中に在り。、、、、」後漢書列伝東夷・倭条 [8]
として、以下倭を詳細に紹介している。「読者は極東の海の倭人を既に知っている、今時倭人といえば極東の倭人だ」という立場で「タイの倭族」などを字義からはずしている。これが、後漢時代の認識なのであろう。このような使い分けは、中国史家が国際的・時事的な当時の基準に照らして表現しているから、貴重な内容を持っている。
国家の成立をいかに定義するかは多様にあり得、時代と共に変化するが、内部・外部に多くの「国」を見ている中国が、その当時のレベルと比較基準を以って「国」と認めるかどうかは、一つの蓋然性のある判断基準である。その意味で、本書では中国史書の認定を重視する。
[6]
「漢書」 前漢(前202‐8)の史書。後漢時代に班固(32‐93)が撰録「地理志」に倭のことが1行だけ記録されている。「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国をなし、歳時を以って来たり献見すという」
[7]
楽浪郡設置が前108年だから、漢代後半、紀元前一世紀の地誌。極東倭人の初出記事として、注釈なしに倭人と言っている。
[8]
「後漢書」(ごかんじょ)後漢(25-220)の約200年間、5世紀南朝宋の范曄(はんよう)の編 倭国については東夷伝。魏志倭人伝を基にしている。
● 西暦1世紀 倭国の統一
1世紀の前半、まだ統一されていなかったが、倭は「倭国」という捉え方がなされはじめた。
「倭奴国、貢 [9] を奉りて朝賀し、使人は自ら大夫と称し、倭国の極南界也。光武は賜うに印綬を以てす。」後漢書建武中元2年(西暦57年)
あの「九州志賀島(しかのしま)から出土した金印、漢委奴国王印(かんのゐどこくおうのいん)
[10] 」がこれだ(読み方は別論あり)。それもあって、この文献は多くのことを示唆する。まず、倭奴国が九州にあったことは出土した金印の鑑定から定説化して異論のないところである。次に「倭国の極南界」の言葉で「倭奴国
[11] 」が倭国の一部であること、また倭国が朝鮮半島にも及んでいたこと、倭国が九州内陸部に及んでいないこと、などを示している。
「倭奴国、貢を奉り朝賀し」とあるが、何の為に朝貢したか、倭奴国王が漢の後ろ盾を欲したのはもちろんとして、すでに倭国王を自称していて倭国王承認を申請した可能性もあろう。倭奴国は、九州の玄関に位置し、朝鮮半島の倭国群を三韓から守る利害関係者であり、中国の承認が有効な競争相手(三韓)と争っていた。また、朝賀して後漢と交渉する外交レベルを持っていた。結果、「倭国王」は承認されなかったが、金印を得ることができた。
1世紀後半、つまり倭奴国金印(57)のすぐ後70年頃に、倭国はついに統一を果した。統一倭国王は後漢に遣使する。
「永初元年(107)、倭国王帥升(すし)等、生口百60人を献じ、請見を願う。(朝貢となっていない)」後漢書
「その国(倭国)は本(もと)も亦男子を以って王となし、住(とど)まること7、80年なり。倭国乱れ、、、、」魏志倭人伝 [12]
「桓・霊の間、倭国大乱、、、暦年主なし、、」後漢書
即ち、倭国は男子の王「倭国王」で統一され、それは70〜80年続いたという、それはいつか。ヒントになるのは、そのあとに続く文字、「倭国乱れ」である。別の資料がそれを教えてくれる。後漢桓帝・霊帝の年代がわかっており、「その前の70〜80年間」をもとに逆算してみると
[13] 、大まかに言えば、「西暦70年頃、倭国は男王によって統一され、107年には倭国王帥升の遣使があり、統一は西暦140年〜150年まで続いた」となる。
これが、「倭国王」の称号使用の初めである
[14] 。この倭国王は朝貢していないから、与えられた称号でなく自称かもしれない。また、朝貢した倭奴国系とは系統が異なるかもしれない。しかし、後漢はそれを拒否していない。
[9]
貢・朝貢と、献・朝献・献見は別。
[10]
倭(わ、ゐ=したがう)の字ではなく、委(ゐ=まかせる)の字を使っている。倭の卑字を避けた中国側の配慮と言われている。共通の「ゐ」が正しい読みとする説もある。「委」の字が再出する唯一の日本の文献は正倉院御物「聖徳太子筆とされる法華義疏(ほっけぎそ)「此是大委国上宮王私集非海彼本」の書き込みである。この御物の主人公は聖徳太子ではなく、多利思北孤だとする説(「法隆寺論争」家永三郎古田武彦
新泉社 一九九三年 )を筆者は採るが、更に「大委」と多利思北孤の国書にでてくる「大隋」とが対となる対等外交用語であると指摘したい。
[11] 「倭奴国」 「倭の奴国」ではなく「倭国の倭奴国」である、との説に従った。漢は倭国を認識しているが、倭奴を含む倭諸国を統一してはいない、との認識である。属国に金印を授けることはない。
[12]
魏志倭人伝 「魏書」(通称『魏志』)の東夷伝倭人条 撰者は西晋の陳寿、西暦三世紀後半に書かれた。
[13] 後漢桓帝(一四七〜一六七)・霊帝(一六八〜一八九)の「桓帝の例えば中ごろ一五七から大乱が開始した」とすると、その前、七〇〜八〇年間が男王の統一時期であるから、統一の時期は、「一四七の七〇〜八〇年前、即ち六七〜七七」である。倭国王帥升(107年遣使)は数代後の倭国王である。
[14]
後漢書では「倭国王」だが、『翰苑』に引用されている後漢書には「倭面上国王」とあり、議論が残っている。次に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書に倭国王珍とあるまでない。に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書に倭国王珍とあるまでない。
第2章 倭国、拡大して大乱 卑弥呼は九州 邪馬台国は九州外 (目次に戻る)
● 2世紀 倭国の大乱と再統一
2世紀後半(140〜150頃)国は乱れたが、女王卑弥呼が立てられて倭国は収まった。倭王卑弥呼は魏に朝献を求めた、とある。
「倭国乱れ、、、すなわち1女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。、、、景初2年(239)6月、倭の女王、大夫の難升米(なしま)等を遣わし郡(帯方郡)に詣(まい)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。,、詔書して、、親魏倭王卑弥呼に制詔す、、親魏倭王となし、金印紫綬を、、仮綬せしむ、、、」魏志倭人伝
倭国の女王となった卑弥呼は金印を授与され、魏の認める国となった。
● 卑弥呼の女王国は九州
倭王卑弥呼の都はどこにあったか。魏志倭人伝の「里程記事」によれば帯方郡から都までが1万2千里、そのうち九州北岸までが1万里、とあるから残り2千里(160q
[15] )の九州内にあることは明らかである。
「、、、(帯方)郡より倭(倭国としていない)に至るには、海岸に循って水行し、、、、狗邪韓国(半島南部)に至る七千余里、、、始めて一海を渡ること千余里、対馬国、、、又南に一海を渡ること千余里、一大国(壱岐)に至る。、、、又一海を渡ること千余里、末盧国(九州北岸)に至る。(ここまで海路で1万里、陸に上る)、、(帯方)郡より女王国に至ること萬二千余里。(残り二千余里)」魏志倭人伝(カッコ内筆者)
更に次の記載もある。九州島の女王国の東の海以東(四国以東)は女王国ではないが、倭種である、としている。また、九州島南部には女王に服属しない国狗奴国があるとしている
[16] 。
「女王国の東、海を渡る千余里(75q)、また国あり、皆倭種なり、、、
(女王国の境界の)その南に狗奴国有り、、、女王に属せず。、、、」魏志倭人伝
以上、卑弥呼の倭の国とは、この時点で九州北半分を占めているに過ぎなかった。
[15]
帯方郡から九州北岸まで海上一万里は現在の地図上で約800km、従って一里=約80m
[16]
邪馬台国を大和、その南の狗奴国を葛城王国に当てる説がある。「倭人・倭国伝全釈」P14 鳥越憲三郎 中央公論社 二〇〇四年 しかし、大和国と葛城王国では20kmと離れていない。九州から吉備・大和まで服属させたとする説の大和倭国が、喉もとの葛城王国を征服できないとは不合理な説だ。
● 女王の都する邪馬台国
では、何が論争になっているのか? 魏志倭人伝には、卑弥呼の女王国について前述の「里程記事」の他に、悩ましい「日程記事」の数行があり、邪馬台国論争を巻き起こしてきた。
「南、投馬(とま)国に至る、水行20日、、、南、邪馬壹国 [17] に至る。女王の都する所にして、水行10日、陸行1月なり。」魏志倭人伝
倭国=九州説では、すでに帯方郡からの里程で女王国の場所が記されているから、ここの記述は同じ行路を重ねて日程でも示したのだろう、日程数及び方角(南)から「帯方郡から女王国への『日程』」と看做す説を採る。そして、倭国女王の都する所が九州の邪馬台国とされる。この国名「邪馬壹国」が登場するのはここ1ヶ所のみで、他5ヶ所では「女王国」とのみ表現されている。
一方、倭国=大和説ではこれを「九州北岸からの日程」と理解する。「素直に読めば、帯方郡から九州北岸までの里程の先に、「問題箇所」の日程行路を足して読むべきで、そうすると九州南端、あるいはその先の海になってしまう。だから、「南はまちがい
[18] 、東が正しい。」とし、瀬戸内海を東に水行20日プラス10日行けば「難波」にいたる。そこから東へ陸行1ヶ月では、また海に出てしまうから、「1月」は「1日」のまちがい。「『難波から1日』は『やまと』、すなわち、邪馬台国はやまとだ。倭国女王卑弥呼の都する所が邪馬台国
[19] で、邪馬1国は魏志の版本の誤記とする。」と。これが、邪馬台国=大和説だ。なにがなんでも卑弥呼の邪馬台国を大和にしなければすまない、強引な説である。
[17] 「邪馬壹国」とあるが魏志版本の誤りで、正しくは「邪馬臺国」である、とするのが定説となってきたので、引用以外は「邪馬台国」と記す。
[18]
まちがいの遠因は、前出の徐福伝説にある、とする考察が多い。
[19]
ここでは、通説を論ずるので「台」をつかう。「壹」は魏志の主要版本の字であるが、文献精査から「台」が原本(亡失)の字との説が通説になっている。
● もう一つの大和説 卑弥呼=九州、邪馬台国=大和
右のような強引説では大和説も説得力がない。これに対して、最近別の大和説が提案された。大和
岩雄 ・上野武 [20] らは、今検討の魏志倭人伝(280頃)をその基となったと思われる魏略
[21] と詳細比較した。
その比較の結果、魏略には倭国への「里程記事」はそっくりあるが、先述の問題箇所「邪馬台国及びその日程記事」は無いことがわかった。つまり、魏略では、倭王卑弥呼の都は里程のみで示され、それは九州であった。魏志の編集時に別の史料から日程記事を追加挿入したらしく、その出所はわからないという。それなら出所不明で意味不可解なこの挿入文をとりあえず削除して読めばよい。そうすると卑弥呼の倭国=九州説で問題ないことになる。
大和・上野らは更に別の推定を追加してこの挿入部分の「邪馬台国」を理解しようとした。追加の推定とは、@この問題箇所の情報は同時期ではなく「後年」中国が入手したもの、特に時代的に近い卑弥呼の後継の台与の遣晋使(266)が中国に伝えた情報だと推定する。A従って、邪馬台国の女王とは台与である、と推定する。Bその邪馬台国は大和やまとにあったと推定する。Cそして、魏志の編者である陳寿が「台与の都が邪馬台国なら、卑弥呼の都もそこだったのだろう」とはやとちりしたと推定する。その結果、時代の異なる台与の都名(邪馬台国)/行路日程を、卑弥呼の都名/行路日程として追記した、とする。
これは、分析としては一歩前進ではあるが、かくまで推定を重ねるならば、先の強引な説と大差ない。「なにがなんでも邪馬台国=大和」説、「卑弥呼でだめなら台与ならどうだ」説となってしまう。「卑弥呼の後継台与がなぜやまとにいるのか」の疑問には、E「卑弥呼の死後再び倭国(九州)が乱れ、台与を共立して収まった時、これを支持した主要国が大和の邪馬台国だ」とするが、これも新たな推定だ。これを支持する史料として日本書紀の次の記述を挙げている。
「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の安泰始め2年(266)、、倭の女王(台与らしい)、訳を重ねて貢献せしむ』と」神功皇后紀
しかし、これもおかしい。大和の邪馬台国なら、大和王朝ということだろうが、その王朝が出した初めての倭国の女王台与の日本書紀の記事が引用一行のみとは、逆に関係ない/何も知らない証である。
以上からいえることは、魏志編纂時に「(大和と思われる)遠方に女王の都する邪馬台国がある」という情報があったかもしれない、というところまでである。列島では、4世紀ごろまで女王はめずらしくなかった [22] 。
[20]
「女王卑弥呼の『都する所』」上野武 NHK出版 二〇〇四年 この説の基となる説は、喜田貞吉(一九一七、橋本増吉(1932)らの「やまとへの里程情報と日程情報が原典がことなるものが誤混同されている」とし、久米雅雄は「九州女王国卑弥呼と畿内邪馬台国(卑弥呼の弟が佐治する)が並立していた。」とした。
[21]
魏略は魚豢(ぎょかん)編纂の史書。散逸し「翰苑(かんえん 唐代初期)巻三十蛮夷部」に「魏略に曰く云々」として引用している文がある。この翰苑の部分写本が太宰府天満宮所蔵(一九一七年発見)にある。(二七〇頃とする 山尾幸久一九八六)
[22]
倭人・倭国伝全釈 p83 鳥越憲三郎 中央公論社「(碩田国(大分県)に)女人有り、速津媛という、一処の長なり」景行紀 他にも、筑紫国八女郡の八女津媛・諸県(宮崎)の泉媛なども同様という
● 卑弥呼は倭国王でない
筆者は、大和らのこの分析の前半を評価し、「邪馬台国/行路記事はとりあえず削除した方が安全」と考える。卑弥呼を邪馬台国と切り離して理解することで、卑弥呼女王国九州説をよりすっきり理解できる。一方、混入記事が「邪馬台国」と「大和を目指しているらしい日程記事」がセットで扱われていることから、邪馬台国=大和説を何らか裏づけする情報があったと推定はできる。ただし、それ以上の情報がないので、推論を先に進めることはできない。
中国は「卑弥呼は倭国の女王であるが、倭国王ではない。倭国は卑弥呼の九州女王国よりもはるかに広い。」と認識していたと筆者は考える。その表れが「倭国王」でなく「(親魏)倭王」だ
[23] 。すでに見たように倭国は西暦70年頃統一を果たし、王は108年に中国に遣使して倭国王と認められた(後漢書)。2世紀の中国の認識は「倭国は半島南端と北九州であり、それを統一したから倭国王」としたが、しかし、その後大乱があり、女王を立てて収まったが、3世紀の中国の認識は、「倭諸国は更に広く四国・近畿まであるらしい」との情報をもとに、九州北半分だけの女王国卑弥呼は倭国王と認めず、「(親魏)倭王」とし、「女王国」としたのではないか。
魏志からは、むしろ次の明確な否定を汲み取った方がよい。
(1)仮に「卑弥呼や台与が、邪馬台国や大和・纒向について重要な役割をはたしていた」としたら、魏志編者には少なくも位置情報位はもう少し正確に与えられたであろう。だから、そうではなかった。
(2) 仮に「纒向に祭事女王が都した邪馬台国があった。その女王は倭国系(例えば台与)であった。」としたら、日本書紀が晋の起居注など持ち出すまでもなく、自前の情報で神武以上に特筆大書しないはずはない。だから、そうではない。序論に戻る
[23]
「倭国王」でない理由は他にも種々考えられる。女王だから、祭事王だから、初回遣使だったから、などなど。しかし、ここで注目したかったのは古代史学会で当然のごとく思われている「卑弥呼の倭国統一」の常識への疑問だ。
● 魏志の邪馬台国逆定義論
ここで筆者が指摘したいのは、魏志の編者が正確な情報を記せば、「卑弥呼=九州、邪馬台国=大和」が定着したかもしれない、しかし、事態は逆だ。この混入文のあいまいさのおかげで、事実がどうあれ「邪馬台国とは九州の倭国の都」との逆定義が定着し、以後中国の史書では批判なしに「邪馬台国=九州倭国の都があった所」とされてゆく。いわば、中国史書の自縄自縛だ。例えば、
「国は皆王と称して世世伝統す。その大倭王 は邪馬台国に居る。楽浪郡のとりでは、その国を去ること万二千里(邪馬台国=九州)、、」後漢書
後漢書は、魏志より対象とする時代は早いが編纂は魏志より遅く、魏志を参照している。魏志を引用することによって、魏志倭人伝を追認し、邪馬台国=九州を定着させた効果がある。
「(里程記事+日程記事を踏襲し)邪馬台国に至る、則ち倭王の居る所なり」梁書(魏志の邪馬台国=倭王の都 を追認)
「魏の時、、、邪靡堆に都す、則ち魏志の謂う所の邪馬台なる者なり、古にいう、楽浪郡境及び帯方郡を去ること並(みな)一万二千里にして(九州)、、、」隋書
「魏志は邪馬台を九州だと言っている」と断定していながら、「邪馬台はやまと=大和」説をも連想させて、後世の混乱の基となっている。当時の「やまと=大和」が影響しているのであろうが、「邪靡堆は九州」として、もはや邪馬台=九州説をくつがえすにいたっていない。序論に戻る 序論に戻る
● 二都論
興味深いのは、この論議のなかで、二都論が出てきていることである。久米雅雄
[24] は、卑弥呼の居る『筑紫女王国』を基点としての、西から東に向かっての宗教戦争(これを『倭国大乱』とみる)の到達点として、新たに都として定められたのが『畿内邪馬台国』だとし、この統治は『男弟』に委任し(政事の都)、卑弥呼は引き続き『筑紫女王国』に留まった(祭事の都)とした。この二都論は試論に終わったようであるが、新たな視点である。筆者はこれより下った4〜6世紀の倭国・大和国の関係にこの視点からの試論を以下に試みたい。
[24]
「新邪馬台国論」久米雅雄 日本史論叢会 1986 「女王卑弥呼の『都する所』」上野武 NHK出版 2004年 参照
第3章 3世紀、纒向へ神武の参加 大和と九州の祭政二重構造へ (目次に戻る)
● 纒向(まきむく)古墳
3世紀後半、大和の纒向に大規模な都市型集落が現れたことが近年の考古学研究から明らかにされた。関東から四国・九州の特徴を示す土器が多数使われて、広域を巻き込む活発な祭事活動があった。後年全国規模で拡がりを見せる統一形式の前方後円墳が、全国規模の祭事権威の確立を示している。しかし、各地に分布する前方後円墳は各地の首長を祀り、「大和(天皇)の諸豪族支配」を示すものではない。このことから、大和の纒向は、「諸豪族の独立的政事権の支持を得た祭事権のみの融合活動、祭事朝廷の類」であったと考えられる。卑弥呼の場合と同じであったと思われる。
寺沢薫はその著「王権誕生 [25] 」の中で、やまとの古墳の多くは各地の首長の墓であるとし、「王たちの奥津城(墓)は本拠地(地方)に造られるという常識は、こと初期の王権中枢に関しては考え直さなければならない。」と述べている。筆者も、各地首長は政事王として各地に在地し、各地の祭事王あるいは巫女が派遣されて大和に於いて祭事朝廷を形成し、各地首長の為の墳墓を大和に建設し祭祀従事したと考える。
[25]
「王権誕生」寺沢薫 p332 2000年 講談社
● 大和/纒向の主は卑弥呼ではない
この纒向が邪馬台国である可能性はあるが不明である。その女王が卑弥呼である、との説は前述のように否定された。「女王の都する邪馬台国」の存在は、卑弥呼の他にも祭事王がいたことを示し、纒向の祭事融合活動の考古学情報と相俟って一つの推定を浮かび上がらせる。即ち、「九州の倭国大乱と同じ2世紀後半頃、同じように近畿に大乱があり、おなじように祭事王が共立され3世紀前半には大乱は収まった可能性を示唆している。その祭事王の都が纒向であろう。」と。
● 倭国大乱 記紀の記述 国譲り神話
このように、列島に吹き荒れた大乱について、記紀に対応するような記述はあるだろうか。2、3世紀といえば弥生時代、歴史以前神話の時代だ。まずは日本書紀神代によれば [26] 、先住の出雲系神々(海峡系倭人か)に高天原系神々(半島系倭人か)が仕掛けた全面戦争、そして出雲系の敗北、これが「国譲り神話」であろう。これは神話の中ではあるが、まさに大乱だ。また、宗教がからんだ戦争は政治的妥協や打算が通じない悲惨な戦争だ。祭事権者の調停だけが解決の糸口となる。このときは、大国主神が祭事権の保持を条件に、政事権を放棄した
[27] 。
この神話を歴史に結びつけると「半島系(高天原系)倭人は、最初九州の最北端に海峡系(出雲系)倭人を追い払って足掛かりの倭奴国を建て、まもなく高天原系の倭諸国はまとまり、男王をたてて倭国となった。この倭国が更に内陸部に勢力を拡げようとして、先行する海峡系(出雲系)の諸国と全面戦争となった。」、これを「倭国大乱」と見たい。この武力闘争を制しながらも、宗教の妥協(女王の共立)で争乱を収めたのが倭国であり、大和国である。「倭国大乱は国譲り戦争である。」こう仮定して先に進みたい。
[26] 「伊奘諾(いざなぎ)伊奘冉(いざなみ)の国生みのあと、伊奘諾(いざなぎ)は生める三柱、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミに、高天原・海原・夜の国を支配させる。スサノヲは亡き母の国に参りたいと泣いた。イザナキは大いに怒って、追放した。追放されたスサノヲは高天原に上って乱暴狼藉を働いたため、アマテラスは天石屋戸の中に篭ってしまった。スサノヲ命は改めて追放され、出雲国で大蛇を退治し、そこで結婚して宮を建てた。その子孫オホナムヂは、因幡の白兎を助けた後、過酷な試練を与えられたり、娘のスセリビメと様々な宝器を手に入れ、スサノヲから大国主神の称号を与えられた。その後、多くの子孫を残し、国造りを行って国土(列島)を完成させた。アマテラスはこの国土は子のアメノオシホミミが治めるべき国であると宣言し、タカギ・アメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチを派遣し、コトシロヌシ・タケミナカタを力ずくで屈服させると、大国主神は自らを祭祀することを条件に葦原中国(列島)を高天原系に譲ることを承諾した。」日本書紀神代要約
[27] 「ただ僕(あ=大国主神)が住みか(神殿)は、天つ神の御子の天の日継知らしめす、、天の御単(みす)の如くして、底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり(ふとく)、高天原の氷木たかしりて(屋根の交叉する棟木をたかくして)治めたまはば、、僕(あ)は、、、隠(かく)りはべらむ(立派な神殿に祀ってくれるなら、自分は引っ込もう。)。また、、(子の)事代主神、、仕え奉(まつ)らば(祀らせれば)、僕(あ)が子等百八十神は違(たが)う神はあらじ(自分の子を祭祀者にすれば、一族も文句は言うまい)」古事記上
● 3世紀 神武東征
神武が九州から出て、大和に定着したことは、日本書紀が大書するところである。神武の祖、ニニギノミコトは日向高千穂の峰に天降ったとされるが、彼らはアマテラスから命じられて九州南部(狗奴国征討の為に?)派遣された一族であろう。アマテラスはニニギだけを降下させたのでなく、大和へニギハヤヒを派遣するなど、複数のグループを各地に「降臨」入植させたと思われる。卑弥呼の遣魏使の目的は倭国統一の承認を求めたことの他、倭国の南に盤居する狗奴国を魏に牽制してもらう為と言われている。このような政事・軍事は祭事の卑弥呼の仕事ではないので、別に居た政事権者(主要倭諸国王)が動いたのであろう。そして、其の目的は達せられ、魏から金印と旗指物を授与された。狗奴国との争いは休止したとみられる。長年にわたり南九州制圧の為に入植した兵団は「領土を得ることなく」役割を終え、転出を余儀なくされたのではないか。新たな倭国政事戦略に従って、3世紀、おそらく3世紀後半、その一部勢力と思われる神武等が倭国の新政事戦略としてか、九州から彷徨とも思える旅に出た。吉備に数年滞在したのも、倭国勢力確立の為に関与したのであろう。そこでも役割を終え(仕事にあぶれ?)大和に向かう。そこで遭遇した先住民は、同系のニギハヤヒトの子孫、スネナガヒコだった。神武は征服王者ではなく、後から来て小競り合いの末「やまと」に入れてもらい、地元の神(祭祀権者)の娘を正妃に迎えて融和を図ったのだ。以後、神武の後継者は地元の豪族と婚姻戦略をすすめ、祭事権者として、豪族の政事権と連携して拡大していった。日本書紀はこれを神武天皇の東征として詳細に記している。また、このことが後年の新唐書
[28] にもでてくる。これは大和朝廷の自己主張に基づいている。
「日本、古(いにしえ)の倭奴也、、、其の王姓阿毎(あま)氏、、、凡そ32世、皆「尊」を以って號と為す、、、筑紫城に居す、、、神武立つ、更(か)えて「天皇」を號と為す、、、徙(うつり)て大和州 [29] に治(みやこ)す、、、、後に、、倭の名を悪(にくみ)て、更(かえ)て日本と號す、使者自言、、或いは云う、日本(大和国)は小国,(九州)倭(わ)の并(あわ)す所と為る、故に其の號(倭)を冒(おか)す」 新唐書日本伝
[30]
筑紫にいた歴代倭王の子孫である神武は、九州を出て大和に小王国を建て、九州倭の一部として「倭」を自称した、といっている。「母国である倭国の一部(領土/分国/連邦)」の意であろう
[31] 。倭国の支配地が日向・阿岐(広島)・吉備に及んだころ のことである(日本書紀
[32] ) 。
神武が実在したか、実在したとしても神話のように大昔なのか、大和纒向の勃興に合わせて3世紀とみなすか、それとも4世紀の崇神天皇か、5世紀に東征した応神天皇の分割描写なのか議論は多いが判然としない。
大筋が事実と異なるのは「解釈の違い」として歴史にはよくあるが、細かい描写の物語を「偽作する」ことは難しく又必要ない、気に入らねば史料を捨てるだけだ。だから、神武が東征したかについては何らかの根拠があったのであろう。だが、神武が始祖かどうかは解釈しだいだ。それにも言い訳とその根拠は用意されている、それが国史というものだ。
[28]
新唐書(11世紀成立)は、8・9世紀日本の遣唐使(大和政権)の見解を吟味して、中国からみて正しいと判断したことを記している。
[29] S大和(やまと)の地名由来 古くは「山跡・八間登」など当て字した。九州王朝説では、邪馬台国は九州にあったとし、その由来としての「山門」など九州の地名を神武が東征時、大和地方に持ち込んだとする。別に、「やまと」は神武以前からの大和地方の固有の地名とする説(「日本の国号」坂田 隆 青弓社)があり、筆者はこれを採る。六七〇年以降、「倭(やまと)」、日本書紀では「日本(やまと)」を当てた。天武時代に地域を広げて「大倭(やまと、おおやまと)」を当て、七五七年以降、「大和(やまと)」を当てた。dfg
[30] sこの文章は、日本の遣唐使が説明した三種の正統性の説明の内、唐側が納得した部分を記したもので、真実というよりも、日本の主張である。「日本とは筑紫城にいた倭国王の子神武が東征した、だから、日本は倭国の正統な後継者だ」と言いたいのであろう。更に主張して、「神武以後は、宋書倭国伝の倭の五王(九州倭)も、隋書俀国伝の多利思北孤(九州倭)も、正当な倭国ではない。」と主張したであろう。唐側は、そこまで採らず、日本は倭国の分岐、別種だと認定したd
[31] あ神武東征の実際の形は様々に想像されるが、そのどれであるかは特定できない。例えば、「本国で食いっぱぐれの一派が新天地を目指して成功し、本流であると自称した。」、あるいは、「本国が衰退したので、新天地への転進をはかって成功したが、その後、本国は盛り返した。あるいは、「本国にはその後、別の国が興ったが、中国から見て同じ倭人の国とみられ対外的には同じ「倭国」と呼ばれた」、など。九州分流が初めから「倭」を自称していたかどうかわからない。他者からは、九州倭と区別する別名で呼ばれていたであろう。その一例は「日本」である。九州倭からみて東方という意味である。sd
[32]
あ神武は、日向を出て筑紫の端に立ち寄り、安芸・吉備に数年滞在するが、戦った記述はない。既に倭国の勢力拠点があったものと思われる。傭兵された可能性もあろう。 「伊奘諾(いざなぎ)伊奘冉(いざなみ)の国生みのあと、伊奘諾(いざなぎ)は生める三柱、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミに、高天原・海原・夜の国を支配させる。スサノヲは亡き母の国に参りたいと泣いた。イザナキは大いに怒って、追放した。追放されたスサノヲは高天原に上って乱暴狼藉を働いたため、アマテラスは天石屋戸の中に篭ってしまった。スサノヲ命は改めて追放され、出雲国で大蛇を退治し、そこで結婚して宮を建てた。その子孫オホナムヂは、因幡の白兎を助けた後、過酷な試練を与えられたり、娘のスセリビメと様々な宝器を手に入れ、スサノヲから大国主神の称号を与えられた。その後、多くの子孫を残し、国造りを行って国土(列島)を完成させた。
● 高天原系としての神武
高天原系の倭奴国が九州に橋頭堡を築いたのが西暦57年、近隣諸国を糾合して倭国としての体裁を整えたのが80年、遣後漢使が107年、高天原系が九州内陸部に入ろうとして出雲系とぶつかり大乱となったのが150年頃、武力制圧と国譲りの妥協が成ったのが卑弥呼共立の180年頃、卑弥呼の遣魏使は239年、これは成功して狗奴国との和解で神武等の九州での役割は終った。次は3世紀後半、神武東征。これに先行して大国主神は、国譲りの後三輪神と取引して大和に移った。国神系と出雲系の合体だ。これを追う様にして大和入りした神武とその子孫は、ここでは国神・出雲・高天原の祭祀大同融合に参画して次第に祭祀権者にのし上がった、と見る。
● 祭事王崇神
神武の後、欠史8代を経て崇神の時代に、崇神は大物主神を祀りなおし、天照大神、やまと大国主神を祀るなど、祭事権者として働いた。各地に点在する天神系(倭国系)氏族の支持を背景に、出雲系・国神系の統合に功績があったのであろう。崇神は初めて大和の祭事王となった。政事権は依然として支持基盤の各地豪族の手にあった。しかし、九州倭国系の崇神が大和祭事王なったことにより、ここに九州倭国の政事覇権と近畿崇神の祭事権の連携で祭政二重構造が実現した。
● 祭政二重構造
日本には政祭二重構造の体制が昔から現在まで続いている。2世紀の倭国では、祭事権を姉、政事権を弟がもつ祭政二重構造の紹介がある。引用文末の「男弟あり国を佐治す」がそれだ。
「倭国乱れ、更々相攻伐し、年を歴る。即ち共に1女子を立てて王となす。なづけて卑弥呼といい、鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。、、、、男弟あり国(倭国)を佐治す」魏志倭人伝
政事権は各国が保持したまま、祭事権を卑弥呼に共立して収まったものであろう。この場合、弟が政事を司るとはいえ、各国の政事の調整役程度か。
7世紀になっても兄が祭事権、弟が政事権をもつ例がある。
「倭王は天を以って兄となし、日を以って弟となし、、、、日出れば、、、、弟に委ぬ」隋書俀国伝
この場合は、倭王家の祭政を天と日、兄と弟に区分している。この時代の倭国ではこの形が特別な意味を持っていたのか、「九州年号 兄弟(558‐559)」が存在することが知られている。
● 倭国の祭政二重構造
このような伝統的な祭政二重構造を大和国と九州倭国に適用してみよう。大和の祭事権は、崇神以降同じ倭国系として九州倭国の祭事権を吸収して列島の祭事権となったにちがいない。九州の政事権は未だ九州北半分を押さえたに過ぎないが、崇神の祭事権と連携して列島征戦に乗り出して、列島統一過程に入った。祭政二機能をこの2王国で分担したとすると、倭国は外交戦略・対外遠征・年号・行政・冠位等々政事を担当。大和国は宗教・司祭など祭事を担当と考えられよう。このような二重構造はどちらが上、というものではない。倭国からみると、中国を始め朝鮮・倭国の常識では、対外代表・年号・冠位の専管権こそ国の最高権力である、即ち倭国が列島の代表だと認識するが、大和からみると、それらは国の一機能に過ぎず、祭祀権こそ国家最高権力である、即ち大和こそ国の代表であると認識していた。そして、その分担になんら不都合を見ていないように見える。競合関係ではなく、補完関係である。
崇神は四道将軍を各地に派遣した言われる(日本書紀)が、実態は連携した九州倭国の将軍ではなかろうか。将軍の派遣先に九州が含まれていないことが根拠とされる。
● 前方後円墳
古代、農地開拓が順調にすすみ、農業生産高が高まると、余力を侵略と戦争に使う例も多いが、統一後は争乱規制力が働き、専制君主政治と巨大建造物に進むのが世界の通例だ。大和もその流れの中で巨大古墳を造った。3世紀の纒向(まきむく)古墳に始まり、4世紀に盛行する箸墓(はしはか)・崇神天皇陵・景行天皇陵はいずれも前方後円墳で円墳部直径が百60メートルに達する。特に箸墓古墳は卑弥呼塚百歩(魏志倭人伝)に相当するとして卑弥呼陵に当てる説 [33] がある。「だから、大和は倭国の中心、邪馬台国だ」とする説である。
前方後円墳の起源を中国に求める説もある。中国では、冬至に都の南郊の円丘で天神を祀り、夏至に北郊の方丘で地祇を祀ったという。これを倭国の使い(卑弥呼の次の台与の使いか)が見た可能性がある
[34] 。
「泰始2年(266)、、、倭人来たりて方物を献ず。円丘方丘を南北郊に併(あわ)せ、二至(冬至と夏至)の祀り二郊に合わす。」晋書武帝記
祭祀にも円丘方丘(一例50m四方)を併(あわ)せる新しい考えが打ち出されたのであろう。もとより、墳墓と春秋祭祀の祭壇とは規模においても意味合いにおいても異なるから、倭人がなにを参考にし、しなかったかは憶測にすぎないが、前方後円墳の定型化と列島での権威付け・理論付けに参考にはなった可能性を否定することはできない。纒向の祭事活動に倭国系が参加する前から、文化の通過地点として九州の寄与があったかも知れない。
神武・崇神など倭国系が加わってからの大和の祭事権は、前方後円墳を許可する他に、倭国と連携して鉄貿易権や先進文化導入で権威を高めていったと筆者は考える。
[33]
三輪の考古学 河上邦彦 学生社 2003年 など。
[34] 『王権誕生』寺沢薫 講談社、2000 『魏志倭人伝』旧版 山尾幸久 講談社現代新書、1972
● 薄葬令
だが、ちょうどその頃国際的には、武帝・文帝が薄葬令 [35] を打ち出したので、魏では大規模墳墓は姿を消して来ていた。漢代から中国に通じ、魏と親交していた九州倭国はいちはやくこれに同調したであろう。九州に巨大古墳が少ないのは、統治力が無かったからではなく、統治形態が進んでいたからと私は考える。九州では、巨大古墳を未開の象徴として軽蔑していたかもしれない。また、朝鮮半島の権益を拡大する為に兵力を蓄えたい倭国は、その意味でも巨大古墳造営には消極的だったのではないか。ひょっとすると、倭国は自分では作らないが、列島の急成長の倭諸国の造反を未然に防ぐべく、国力消耗事業として大和祭事王を通じて巨大墓稜の造作を奨励し、あるいは命じたかもしれない。それは分国王の墓であったかもしれないし、あるいは倭国王の墓を造らせたかもしれない。九州の倭の五王の墓が近畿にあるとの考えは奇妙かもしれないが、陵墓構築には全国から人夫を徴発したであろうし、祭事権者(大和)に祭祀を司らせ、更に墓守制度(例えば、制圧地の民330家を全国から集めて、墓守をさせたと広開土王碑にある)などを勘案すると、倭国王の墓を全国の中心大和に構築した可能性があると筆者は考えるが、更なる研究を要するテーマである。
[35] 日本では大化の詔の中に薄葬令(六四六)がある。その前文に魏の文帝の詔がある。初代の文帝(曹丕)は、黄初三年(二二二)に徹底した薄葬の方針を打ち出したという。卑弥呼の使者たちが洛陽に来たのは、まさしく曹操や文帝の薄葬主義のまっただなかであった可能性が高い。
第4章 4・5世紀 倭国/大和連携による列島統一と半島征戦 (目次に戻る)
● 4世紀 倭国の半島遠征
朝鮮の歴史書三国史記
[36] には、4世紀に倭国が新羅・百済を繰り返し襲った事が記されている 。
「364年、倭兵が大挙して新羅を襲ってきたが、伏兵で皆殺しにした。
366年、百済が初めて倭国・新羅に使者。
397年、百済王子膜支(てんし)が倭に入質して友好関係をもった。(ポイントは、不名誉な記述だから偽作ではないと言う点)
402年、新羅が倭国と通好し、王の子未斯欣を人質に出す。
405年、百済の人質膜支が、父王の死去で、倭兵百人に伴われて帰国。王になる。
418年、新羅の人質未斯欣が倭国から逃亡、帰国に成功。(三国史記)
ここからは、4世紀に建国されたばかりの百済や新羅が、南進策を積極的にすすめる北の高句麗と、北上策をとって百済や新羅を攻める倭国の2強国の問にはさまれて翻弄(ほんるう)される様がまざまざと眼に浮かんでくる。倭国は百済のみか新羅からもその王子を人質にとり、高句麗と真っ向から対立する強国だったのである。そして、高句麗と倭はついに直接の激突をくりひろげることになる。
[36] 韓国に残る歴史書には、12世紀にできた『三国史記』と13世紀にできた『三国遺事』、それから、『三国史記』のもとになった『旧三国史』の逸文がある。これより古い史書が残されていないが、百済の武寧王陵が発掘され、そこから出土した墓誌とこれら史書の内容が一致したことからその正しさが見直された。
● 5世紀の倭国 広開土王碑
倭を伝える貴重な文献が、中国吉林省集安に現存する。高さが6メートル強もある巨大な広開土王碑 [37] である。広開土王碑の倭(わ)に関する記事は次のようなものだ。
「百済と新羅はもともと高句麗の属国だったが、倭が391年海を渡って百済や新羅を破って、臣民としたため、新羅や百済は高句麗に対して朝貢しなくなった。(この記述のポイントは、「倭が(1時的であるにせよ)百済・新羅を属国にした」証拠である点である。)
400年広開土王は歩兵と騎兵5万を遣わして新羅を救った。新羅城には倭が満ちていたが潰走し、倭に味方する安羅人兵も破った。(「加羅が倭と特別な関係であった(任那)」ことの証拠である。)
404年倭は高句麗の領土である帯方地方まで侵入してきた。百済の兵と連合を組んで石城を船を連ねて攻撃してきた。そこで広開土王は自ら軍を率いて征討し、、、、倭軍は潰敗し、王の軍は無数の敵を斬り殺した。(この記述のポイントは、「倭が水軍を駆使した」点である。単に対馬海峡を渡っただけでなく水軍を擁したことは、瀬戸内海を含む制海権を持っていただろうことである。瀬戸内海から紀伊、伊勢、尾張と広がる活動をも想像させる。)」広開土王碑文抜粋
広開土王碑は勝者側の記録だから、その表現に相当な誇張があることは否めないが、記事の信愚性はきわめて高く、第1級の資料とみなすことが出来る。
[37] 高句麗(こうくり)の第十九代の国王・広開土王(こうかいどおう)の功績(こうせき)を編年体(へんねんたいじ)に叙述(よじゆつ)した石碑で、広開土王(こうかいどおう)の息子の長寿王(ちようじゆおう)が、四一四年に建てたものだ。広開土王(こうかいどおうち)と長寿王(ようじゆおう)は高句麗(こうくり)の歴史八○○年のうちで、親子二代にわたる一世紀を極盛期に導いた人物なのだ。
● 宋書倭国伝 倭の五王
上述のような戦いの裏で、武力で劣る倭国は周到な外交戦略を取った。倭国は当時の中国、東晋・宋・梁など歴代の当時の中国王朝に朝貢し、百済・新羅・高句麗と戦う大義名分の称号を貰うべく工作した。その為に、中国からみた他称「倭」を「自称」し、中国式の一字名を使った。
宋書 [38](503年完成)倭国伝には、いわゆる「倭の五王」、讃・珍・済・興・武が登場する。
「421年、倭讃が宋に遣使。
425年、倭讃が死に、弟珍が立つ。倭国王と自称し宋に遣使。倭国王に叙せられる。
443年、倭国王済、宋に遣使。倭国王に叙せられる。
451年、倭国王済、遣使。使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の称号を受ける。
460年、倭王済、死ぬ。
462年、倭国王(済)の世子興、遣使。安東将軍・倭国王の称号をもらう。
477年、倭国王興死ぬ。(弟の武王が)宋に遣使。
478年、倭王武、倭国王を自称し宋に遣使。使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭王の称号を受ける。」宋書倭国伝
倭国王と記されるのは、107年以来である。
[38] 宋書(−479) 503年沈約によって完成
● 倭王武の上表文
倭国王興が死んで弟武が立ち倭国王を自称してその承認を得るべく、478年宋最後の皇帝8代順帝に送った上表文は、みごとな駢儷体べ(べんれいたい)の格調高い漢文で、人の心を打つ堂々たる内容で書かれている。編者の引用していることがそれを示している。
「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずから)甲冑を撰(つらぬ)き、山川を践渉し、寧処(ねいしょ)に蓬(いとま)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国。王道融泰にして、土を廓き畿を遽にす。
累葉朝宗(毎年朝貢して)して歳に葱(おこた)らず。臣、下愚なりと雖も、添(かたじけ)なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極(宋皇帝)に帰崇し、道百済を遥て、船筋を装治す。しかるに句騨(高句麗)無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう)し、慶劉して已(や)まず。毎(つね)に稽滞(けいたい)を致し、以て良風を失い、路に進むと日(い)ども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に憲讐の天路を塞塞するを葱り、控弦百万、義声に感激し、方まさ)に大挙せんと欲しせしも、奄(にわ)かに父兄を喪い、垂成の功をして1管(あとひと息)を獲ざらしむ。居(むな)しく諒闇(喪中)にあり、兵甲を動かさず。ここを以て僅息し(息をひそめ)て未だ捷(か)たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎責文武功を効し、自刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆載を以て、この彊敵を擢(くじ)き克く方難を靖(やす)んぜば、前功を替えることなけん。窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は威な仮授して、以て忠節を勧む」と。(順帝)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。」 宋書倭国伝
まず、歴史的な背景から説き起こし、感謝の念を表明し、現在の困難を説明し、克服する熱意を披瀝し、位をくれればより忠節を励む、と条件を明らかにして丁寧にお願いしている、バランスの取れた立派な国書である。編者が全文を引用するだけのことはある。おかげで、史料の少ないこの分野のなかで、多くの情報を残してくれた貴重な史料となっている。
●
倭王珍の倭国統一
107年の「倭国王帥升」以来、卑弥呼も含め列島に統一国家/倭国王と海外からも認められるようなものは無かった。多くの状況証拠では、卑弥呼時代もその後も九州と大和を中心とする少なくとも二つの国があったと思われ、それ故に統一した単一国家とは見なされなかったようだ。
倭王讃は2度にわたり宋王朝へ遣使朝貢したが、いずれも「倭国王」という称号を貰っていない。讃は倭国統一の事業を完成させていなかったのであろう。しかし、珍からは一変した。珍は「自ら使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓6国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む」とあり、これに応えて劉宋の文帝は、前半の半島部分を削除して「安東将軍・倭国王」という列島側の統治承認の称号を賜わった。以後歴代の後継倭王に対しても「倭国王某」を、認めている。倭の国内統一を認めたのである
[39] 。
倭国の統一は、歴代倭王が先頭に立った東へ西へ北へ [40] の血なまぐさい征服戦争を経て、5世紀前半、倭王珍に至ってようやく国際的にも列島の統一王と認められた。
●
統一の仕上げ、大和の制圧
倭王珍が統一を成し遂げた時代、大和では珍に比定される反正・允恭天皇の時代であったが、日本書紀によれば極めて天下太平で統一征戦などなかった。そこで、先代・先々代の応神・仁徳に注目すると、応神は筑紫で神功皇后から生れ、神功皇后と共に東征し大和(難波)に覇権確立を果したとされている。この後継者たちは巨大古墳を造り、天下泰平を楽しんだ。この東征が統一ということであれば、その発進地九州との統一、単一王朝ということ、これしかない。具体的には、
[41] 、「倭王讃・珍とは応神・仁徳らのことで、九州を保持したまま東征し、大和を制して倭国統一をなしとげた(東征遷都説)」のか、あるいは「倭王讃・珍が王族か将軍であった神功皇后・応神らを派遣して大和を制圧させ、倭国の分国として統一とした(東征分国化説)」のか、いずれかであろう(後述)。応神朝は騎馬民族の影響が強いといわれる事実からも、高句麗と攻防した九州倭国の文化の応神らによる大和への移植が実際あったであろう[42]。
いずれにしても、大和(難波)での倭国系の政事覇権確立と崇神以来の倭国系大和祭事権の合体で、大和は祭政併せ持つ王国となった。
[39] 一面において、列島内統治の承認は半島側の国際的な反対を引き起こさないので、簡単に認めたのかもしれない。
[40] 常識的には、列島を統一して後、半島に遠征するという手順だが、歴史をみると、半島遠征と列島征服が、同時並行して進められたように見える。重要性・てごわさ・相手の出方などでそうなるのか
● 倭王武は「倭国王」の認証を取り消された。なぜか?
倭王讃・珍のあと済・興が立ち、いずれも「倭国王」を認められ、列島は天下泰平を享受したようだ。しかし、次の倭王武は前節のような立派な上表文にもかかわらず「倭国王」は認められなかった。
「478年、武立ち、、、倭国王と称す、、使いを遣わし、表を上る。(順帝)詔して武を、、、安東大将軍、倭王に除す。」 宋書倭国伝(再出)
なぜか? 筆者は、この事実は倭王珍が列島を統一して倭国王と認められた裏返しだと考える。倭王武は列島の統一を失ったのだ。単一王朝が分裂したのだ。
倭王讃・珍から50年後、倭王武は「危機感溢れる上表文」で宋の後ろ盾を請うが受け入れられず倭国王の称号を失った。統一が失われ、王朝は割れていたのだ。倭王武は統一を失った衰退の王だが、倭王武に比定される雄略は大王と称した隆々たる王だ
[43] 。二人は同一人物ではありえない、東征遷都説は成り立たず、別人、雄略は大和王、武は九州倭王である。別人が同一王朝だったとはどういうことか、どちらが嫡流でどちらが支流か。もし、雄略が嫡流なら、日本書紀が大書しないはずはない、苦労して神武を持ち上げる必要など無い。だから、雄略、遡って応神は嫡流でなかった。倭国の王族か将軍であろう。だから大和は倭国系の分国となったと考える。日本書紀によれば、応神の父母は列島・半島の征戦(祭事征戦と筆者は考えるが)に明け暮れた武力集団であった。
では、王朝が分裂したとはどういうことか、大和は雄略の代のころ、自立傾向が強まり、海外からは別の国と捉えられたのであろう。これを見て中国は倭王武を先代の「倭国王」から一「倭王」に格下げしたのだ
[44] 。
[41] これだけを見ると「九州倭王讃・珍は九州を保持したまま東征し、大和を制して列島を統一し倭国王応神・仁徳天皇となった」と見られなくはない。または、「九州倭王讃・珍は応神・仁徳を派遣し大和を制して分国王とした」かもしれない。
[42] トップの率先指揮など、倭の五王の伝統を神功皇后や雄略が示している。
[43] 大王と称し(稲荷山鉄剣銘)、暦を新たにし(中国元嘉歴)、万葉集の冒頭歌を恋歌で飾り、半島に派兵(日本書紀)を行なう隆々たる英雄であった。父祖の地九州を失った失意の倭王とは到底考えられない。続く、倭王武も雄略の軍を新羅に派遣して連携しているとみられる。一方、倭王武の上表文にみる高句麗に対する敵愾心にくらべ、雄略紀には高句麗王の日本に対する敬意の表現などあり、対高句麗でも温度差はある。
[44] 宋書帝紀(四七八)では「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以って安東大将軍と為す。」とあるが、同年のより詳しい宋書倭国伝では「武、、倭国王と称す、、、順帝、、、詔して武を、、、、安東大将軍・倭王に除す(四七八)」とある。従って、宋書帝紀の「倭国王」は自称のことと解る。これ以外はすべて倭王武である。
●
東アジアの混乱
このころ中国は混乱し宋が倒れ、東アジアは各地も下克上の状況が生じた。半島の百済・新羅も対中国や対倭国で立ち上がり、伽耶を倭国から奪った(562)。列島で大和の雄略が応神以来の倭国の分国格から自立を始め、独立的一倭王と認識されこともその一環であろう。
宋が滅び、斉となり梁が建ったが、武の朝貢外交は続いた。
479年宋滅びる。武王、南斉に遣使。(南斉書)
502年、倭王武は梁の武帝から「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓6国諸軍事、征東大将軍」の称号を受けた(梁書)
しかし、このころ南朝梁の半島に及ぼす影響力は落ち、これら称号をもらっても、実効は小さかったであろう。また、だれも反対せず、梁も称号を乱発した可能性がある。その後、倭国内部にも磐井の乱や、これに乗じた継体の造反未遂もあった。
● 列島統一 国内史料
倭王武の上表文のような列島統一に係わる国内史料としては、日本書紀のヤマトタケル物語の右にでるものはない。古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」として登場する「ヤマトタケル」が、「西は熊襲タケル、出雲タケル、を退治し、東に転戦して、数々の苦難を乗り越え、遂に倒れて、白鳥となって倭に帰る」という、夢とロマンに満ち、硬い日本書紀の中でも出色の章がある。これによって、神武以来の大和国は、近畿を制した後、ついに列島の支配に乗り出したと理解されてきた。
この物語と、列島統一物語の「倭王武の上表文」の2つは同じことを言っているのだろうか。それとも異なる事蹟、異なる時代のことをいっているのか。すでに列島統一の最終段階に新たな理解を得た我々は答えの半分を見出している。景行天皇、その子ヤマトタケル、その子仲哀天皇、その后の神功皇后、その子応神天皇という日本書紀の系譜を信じるならば、2つの史料は同じ事蹟を語っているのだ。即ち、倭国王を命令者とし、列島各地を転戦する倭国の王族・将軍達の物語である。
残る疑問は、景行以前、崇神の四道将軍、更に遡れば神武の東征もまた倭国の統一征戦の一環ではなかったか、という点である。本書は既にその仮定で記述してきたが、今一層の確信を得て記することができる。「大和国は、倭国の列島統一戦に参加した。そして、その統一戦すべてを『自分たちの統一戦』と認識していた。」と。だから、自分たちの直接参加した可能性の高い東国征服はとりわけ『自分たちの物語』であるのはもちろん、自分たちが参加しなかったかもしれない九州征服譚も『自分たちの征服戦』と受け止めていた。倭建命がどこの出身であろうが、『自分達の英雄』であったはずだ。2つの史料はおおむね同じ事を、同じ気持ちで同じ側から述べていることがわかる。
「記紀」は一言「倭国の命令で」、あるいは、「倭国といっしょに」を省略しただけだ。倭王武の上表文にしても、「昔より祖禰躬(みずから)甲冑を撰(つらぬ)き」が単に「直系の父祖」だけを指しているのではなかろう。倭王の号令で始まったにしても、血を流した多くの先祖・先達が居てはじめて統一の偉業はなされた。その一例として、倭建命の説話がある。
日本書紀の文章そのものには、九州王朝説の主張のように「7世紀に存在したかもしれない倭国書紀」の流用がかなりふくまれているかもしれないが、同じ伝承は大和国にもあったと思われる。これは「盗用」ではない。まだ近代的歴史書の時代でも著作権の時代でもない。伝承の時代、説話の時代である。伝承の共有があり、時間と共に地方ごとの潤色が加わり、我田引水がある、それはいつの世もそうだし、めくじら立てるようなことではない。
こう考えてくると、「神武東征もまた、列島統一の倭国戦略の一環であった」とうなずける。これらのことから、大和国は、倭国に征服されることなく、倭国の一員として、征服する側に存在していた、と考えるのが自然だ。また九州倭国(北九州)は景行天皇大和国に征服されることもなく、列島の統一に続いて半島の遠征に乗り出そうとしていたのである。
倭国統一の結果、前方後円墳は最盛期を迎えると共に、その意味(国内向け国力誇示)を失い、縮小過程に入った(国力の海外征戦振り向け)。
第5章 6世紀の倭国 中国南朝を後ろ盾にするも、東アジアが混迷 (目次に戻る)
● 6世紀 倭国 南朝朝貢外交の危機
479年に宋が滅び南斉が立つと、武王はさっそく使者を派遣し、502年には梁の武帝からは征東大将軍の称号を与えられている。ちなみに、中国の皇帝が周辺国の王に与える将軍号にも順位があって、高いものから征東・鎮東・安東・平東の順である。しかしこの時期、これら称号がいかほどの効果があったか疑問である。朝鮮半島では高句麗・新羅が勢力を伸ばし、百済・伽耶・倭国勢力が圧迫された時期である。伽耶はついに新羅によって滅亡した(562)。
倭国の朝貢していた南朝は、宋の後、斉・梁・陳と変遷をくりかえし、ついに北朝系の隋に統一されてしまう(589)。それまで朝貢によって後ろ盾を得、それを背景に朝鮮半島での権益維持はかり、この成果を以って列島統一の指導力としてきた倭国は、後ろ盾を失い、権益を失い、その指導力は危機に瀕した。更に、半島では北朝の年号を使う国も現れて、南朝年号も世界標準ではなくなった(536年には新羅も年号を初めた)。南朝の権威は低下し、南朝の爵号もしだいに効果を失った。代わって北朝に朝貢する戦略もあったであろうが、鮮卑からの成り上がり王朝と看做し、権威に欠け文化程度も自国より低いとみなした。あれが天子なら、こちらも天子とばかり、倭国は自ら天子を名乗り、年号を始め(九州年号)、爵授を始めた。
●加羅の離反
一方、加羅王の荷知は斉の皇帝から輔国将軍加羅国王の称号を得た。これは、倭国からの公然たる独立宣言で、半島の基盤と利権が大きくゆらいだ。いまだ鉄の原料の大半を朝鮮半島からの輸入にたよっていた時代だからである。
加羅諸国の倭国からの離反に敏感に対応したのが百済と新羅だった。まず、5世紀末から武力をともなった百済の勢力が加羅諸国に侵入してきた。百済と倭国は朝鮮半島においてもともと同盟国であり、倭国に離反した加羅諸国を侵略することは、百済に大義名分を与えた。
●6世紀 磐井の乱 定説
こうした倭国の地盤沈下の一例として、日本書紀には「筑紫国造 磐井の乱」がある。要旨を、従来の解釈(カッコ)で補って示すと次のようになる。
「継体21年(527年)、(大和朝廷の号令で)近江毛野(臣)が兵6万を率いて任那に行き、新羅から任那を取り戻そうとした。このとき筑紫国造 [45] 磐井、ひそかに(天皇に対して)反逆を企て、、、、、(不法にも)火・豊2国を押さえて、、、(これに対して、大和朝廷は毛野臣を使者に立てたが、磐井は)「今は使者だが、かっては友、肩や肘をすり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからとて、にわかにお前に俺を従わせることはできるものか」といって従わなかった。、、、事態は停滞してしまった。ここに天皇は「筑紫の磐井が反乱して、西の国を我が物としている。、、、」として、、、、物部麁鹿火(あらかい)に「お前が行って討て。、、、長門以東は朕之を制す。筑紫以西(分国として)汝之制せよ。、、、」と言った。激戦の後、磐井を切り、反乱を鎮圧した。筑紫の君葛子は、父に連座することを恐れ、、、屯倉献上して死罪を免れることを請うた。」継体紀 要旨 ()内は筆者
この解釈のポイントは、「反乱以前に天皇は九州を支配していたか?」である。定説は当然「支配していた」とする。「長門以東は朕之を制す。筑紫以西汝之制せよ。」は支配形態の変更であって、「支配そのものはかわらず」とする。
[45] 国造(くに の みやつこ)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種。後述するように、継体は
● 逆説 継体 [46] の反乱
上記の解釈にたいし、九州王朝説は異なる解釈をしている。継体天皇が倭国に反逆したのだというのだ 。
「筑紫の君磐井が筑紫・火国(肥前・肥後)・豊国を支配していることは、倭国を支配しているということ、即ち倭王磐井である。倭王の号令で近江毛野君は半島に出兵した。これに反逆したのは、継体の側である。」とする。その証拠に、継体が物部麁鹿火(あらかい)に「お前が行って討て。、、、長門以東は朕之を制す。筑紫以西汝之制せよ。、、、」と言った。これは、近畿しか支配していない大和国が、半島出兵のため九州に物部軍を送り、突然倭王磐井に反乱して長門から筑紫以西を支配している倭国を乗っ取ろうとしたものだ。すなわち、筑後の国風土記にいう、「にわかに官軍(継体軍)発動し、、、」と。これは、継体側が突然行動に出たクーデターであったことを物語っている、と。
[46] 継体天皇は『日本書紀』が描く天皇のなかでは、全く異色の天皇である。まず、近江生まれの北陸育ち、ということになっていることからも他の天皇といちじるしく異なる。おまけに、『日本書紀(にほんしよき)』は継体(けいたい)を応神天皇五世孫と記している。万世一系の編纂方針に合わせた。
● 第三の解釈 倭国に対する2つの反乱
しかし、この説(倭王磐井説)にも難がある。筆者は、筑紫国=倭国というのは不用意な認識であって、必ずしも正しくない、と考えている。少し時代は下がるが、「竹斯国は俀国に附庸す」との記事(隋書俀国伝
[47] )が示すように、筑紫国=倭国ではない。筑紫の君磐井はそれまで火豊2カ国を押さえていなかったし、反逆は失敗したのであるから2カ国を支配し続けられなかった。従って倭王であったのではないし、倭王になることはできなかった。また、その子葛子は筑紫の君となったのであって、倭王にはなれなかった。継体天皇は九州を押さえていなかったし、押さえることはできなかった。従って、502年にいた倭王(梁書)については、この事件(527年)で何ら変化があったようには語られていない。従って、「筑紫の君磐井が反乱した相手は倭王である」と考える方が素直である。「倭王に対する筑紫王磐井の反乱を大和国継体軍が鎮圧に出た」と考える。その考えで、日本書紀を読み直すと、以下のようになる。
「継体21年(527年)、(倭王の号令で)近江毛野(近江・毛野連合軍の毛野の君)が兵6万を率いて任那に行き、新羅から任那を合わそうとした。このとき筑紫の君磐井、ひそかに(倭国王に対して)反逆を企て、、、、、火・豊二国を(軍の不在を狙って)押さえて、、、(これに対して、倭国朝廷は)毛野の君(毛野倭国)を使者に立てたが、、、、事態は停滞してしまった。ここに(倭国王の要請で、大和国の)天皇は「筑紫の磐井が反乱して、西の国を我が物としている。、、、」として、、、、物部麁鹿火(あらかい)に「お前が行って討て。、、(と反乱鎮圧を命じたが、同時に鎮圧後に自ら新たな反乱を起こし、倭国を占領しようと企て)、長門以東は朕之を制す。筑紫以西汝之制せよ。、、、」と言った。激戦の後、磐井を切り、反乱を鎮圧した。筑紫の君葛子は、父に連座することを恐れ、、、屯倉献上して死罪を免れることを請うた。」(継体紀 要旨 ()は筆者)
継体天皇の企てはここまでで、不発に終わったようだ。倭国を乗っ取るはおろか、その属国の一つ、筑紫の国の王の首を取っただけで、筑紫の国に手をつける事すらできなかった。倭国軍・倭諸国軍が動かなかったためであろう。この記述によって、「大和国は筑紫以西
[48] はもちろん長門も支配していなかった」事が漏れ、「この事件が、倭国の分国同士のレベルの事件に終わった」ことをかえって明らかにしている。逆に言えば、日本書紀はこのことを隠そうとしていない。それは、隠すにはあまりによく知られたことだったのではあるまいか。その後の倭国の再隆盛を見る限り、倭国は体制を維持し、倭諸国もそれを認めたようだ。
[47] 「大業四年(608年)、文林郎裴清を遣わして俀国に使いす。、、、竹斯(ちくし)国に至り、また東して秦王国に至る。、、、また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆俀国に附庸す。」隋書俀国伝
[48] 「筑紫以東は皆倭国に附庸す(隋書608年条)」と比較し、「筑紫(以西)を支配していない 日本書紀527年条)」
● 倭国の半島撤退
このころ、大和国が鉄ルートを九州ルートから出雲ルートへ変えたことで、倭国の列島支配が揺るぎ、倭国の半島介入は弱まったという。加羅諸国は百済と新羅の争奪地、草刈場となってしまったのである。
加羅(から)諸国は連合体制を強めてこれに対抗しようとしたが、親百済派・親新羅派が各国の支 配者層にあって混乱し、この混乱を巧みに利用して新羅は勢力を広げ、532年海加羅を、562年残余の加羅諸国を併合した。こうして、倭国の半島拠点は完全に失われた。
第6章 7世紀、倭国は外交の失敗と内向 大和は模倣と自立模索 (目次に戻る)
● 脱朝貢依存
6世紀、中国は混乱を極めた。倭国は朝貢してきた南朝(宋・斉・梁・)が北朝に滅ぼされたのを機に、国名を佳字をとって「俀国」と改め、自ら天子を名乗った。その王多利思北孤は隋(北朝系)に使いし(遣隋使)、対等外交を展開した。
「俀国は百済・新羅の東南に在り。、、、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。、漢の光武の時、、、朝貢す。之を俀奴国という。、、、魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず。、、、開皇20年(600)、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤(たりしほこ、天足彦あまのたらしひこか)、阿我輩雞弥(あはけみ、おおきみか)と号し、使いを遣わして、、、、。妻は雞弥(きみ)と号し
[49] 、、、、、太子を名づけて利歌弥多弗利となす。、、、、内官12等
[50] あり、、、、仏法を敬い、、、。阿蘇山あり、、、、。新羅・百済は皆俀を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、。
大業3年(607)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢
[51] す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと。、、、』と。その国書に曰く、『日出ずる処の国の天子、日没する処の天子に致す、恙無きや云々』帝は覧て悦ばず、、『蛮夷の書、無礼あるものは、復以って聞するなかれ。』と。」隋書俀国伝
冒頭部分は 「俀国は、昔の倭奴国、邪馬臺国、倭国(五王の倭)である。」と言っているのであり、倭国からの国名改定があり、中国がこれを受け入れた形になっている。中国史書は邪馬台国=九州を継承している。日本書紀にない「国名改定」の主である倭も俀国も昔の邪馬臺と言っていることは、俀国が近畿でないこと、九州であることを示している。「倭奴国」が「俀奴国」と改字になっているのも俀国側の申請であろう。そうだとすると、俀国即ち倭国は前身を倭奴国(九州)であると主張したことになり、倭国九州説の裏づけとなる。
律令制(内官12等有り、、冠制を始む、、(カッコ内は俀国伝記述))や文化(国楽、楽有り、五弦・琴笛。)に注力し、内向化してゆく(兵有りと雖も、征戦無し、、)。祭政二重構造は形骸化し、祭祀そのものの軽視が想像される(天を以って兄と為し、日を以って弟と為す、、、仏法を敬う、、)。独自年号を創め(522)[52] 、爵授を行った [53] 。九州年号は、150年にわたって、続けられ、九州を中心に全国で使われた。ちなみに大和朝廷が年号を始めるのは、大化(655年ただし一時的)からである
[54] 。これらの施策が奏功し、磐井の乱などを乗り越え、6世紀後半には、海外権益を失ったにもかかわらず、倭国の文化は開花し、大和国推古朝もこれを模倣するところとなった。倭諸国の求心力を回復し、その後も倭国は170年にわたって続いた [55] 。
[49] 妻について。「使いの主の俀王は当時の日本の推古天皇」という通説があるが、推古天皇は女帝で妻はいない。
[50] 俀国では600年当時すでに施行済みということである。推古紀の官位十二階は603年制定、模倣か。または、600年以前、倭国が発令し、603年大和国がそれに従った。
[51]
因みに新羅も536年より年号開始
[52] 「倭の偽将軍」との記述が旧唐書にある。後述
[53] ここに「朝貢」の文字があるのは、変だ。天子自称とそぐわない。ここは、1年後に多利思北孤が、天子自称を撤回し、「去年の遣いは朝貢でした」と訂正したことを受けたものであろう、次節参照。
[54] これは、かなりの文化レベルを要する作業で、年号改定ひとつとっても故事来歴・歴史素養・風水・漢字素養などを駆使しないとできない。
[55] 九州年号(522年、近畿の継続的年号大宝年号701年に先立つこと80年)・行政区分(近畿の郡に先立つ評制が禁止された701年)・まで、九州を中心に近畿を含む全国で使われた。
従来「倭」の佳字を採ったとされる「俀」が、5世紀から7世紀まで連綿と使われた倭国の別称「大倭」[56] に基づくことは疑いない。しかし、多利思北孤にとっては更に「大委」であり、「大隋」[57] と対をなす国名であったに違いない。「委」の字は「漢委奴国王印」に彫られた国名の字で、江戸時代まで土中に埋もれ、それまで倭国朝廷以外知らなかった用字と推定される。その字を使った「大委」は、唯一正倉院御物「法華義疏」に見られる字で、いくつかの理由で多利思北孤筆とする説
[58] がある。筆者もその説を採る。多利思北孤が「対等外交」の気持ちを込めた「大委」こそが「俀」の字源であると筆者は考える。
[56] 「大倭」 九州倭の別称として雄略5年条(461年)、斉明7年条(661年)に記載あり 坂田隆「日本の国号」197p
[57] 「大隋」 隋書俀国伝末尾 多利思北孤の言葉として
[58] 「大委」は唯一、正倉院御物「聖徳太子筆とされる法華義疏(ほっけぎしょ)にある書き込み「此是大委国上宮王私集非海彼本」に見られる字である。この御物の筆者は聖徳太子ではなく多利思北孤だとする説がある 家永三郎古田武彦「法隆寺論争」 新泉社 1993年
● 対等外交の撤回
朝貢しない、という選択なら例は多いが、「天子を名乗って対等外交を挑む」という前代未聞に遭遇して、煬帝は一度は怒ったものの、直ちに調査団を派遣した。場合によっては戦争になるかもしれないので、敵状偵察を命じたのだ。
「大業4年(608)、文林郎裴清を遣わして俀国に使いす。、、、竹斯(ちくし)国に至り、また東して秦王国に至る。、、、また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆俀国に附庸す。、、、」隋書俀国伝
この記述は非常に重要である。隋の使いがその目で見聞した信憑性のある報告である。隋書俀国伝が詳細に地理風俗を記しているのは、この使いの報告があるからと知れる。まず、 「竹斯国は俀国に附庸す」であるから、「竹斯国=俀国」ではなく、「竹斯国は俀国の属国」である。そして、俀国は倭国の短期間の別名であるから、一般化してみると、「筑紫国は倭国の属国であって、筑紫国=倭国ではない」と言える。更に、「竹斯より以東は、皆俀国に附庸す。」とあるから、「竹斯より東にある大和国は俀国に附庸す。」ということを意味する。
これには反論があるかもしれない。「大和国=俀国ならば、『竹斯より東は、皆俀国(=大和国)に附庸す。』が成り立つではないか」と。しかし、これは無理だ。隋書600年条記載の俀国と異なり、600年時点で大和国には「冠制なく、年号制なく、遣隋使の経験なく[59] 、俀国への国名改定の記事も、認識も一切ない」からだ。即ち、大和国は俀国ではなく、したがって、俀国は大和になく、従って「大和国は俀国に附庸す。」ということを意味する。
それに続く次の記述は、意外だ。俀国は、誇らしい対等外交をあっさり引っ込め、朝貢を認めている。
「その王(俀王多利思北孤)清(裴清)と相い見え、大いに悦んでいわく、「我れ聞く海西に大隋礼義の国ありと、故に遣わして朝貢す(あれは朝貢でした、俀国の天子自称はなかった)。、、、、」 と。清答えて曰く、「皇帝の徳は二儀(天地)に並び、、、王の化(おしえ)を慕うを以って、故に行人を遣わし来りてここに宣諭す(朝貢するなら許す、その確認に来た)。」と、、、その後、清は人を遣わしその王に謂いて曰く、『朝命は既に達す(天子の自称をやめたことの確認は終わった)。、、、』 と。、、、、この後、遂に絶ゆ (俀国は再度改名して倭国に戻った、俀国としての使は二度と来なかった)。」隋書俀国伝 末尾
即ち、多利思北孤は天子を称したが、中国の反応が厳しく、1年にしてそれを撤回した。俀国構想はつぶされたのだ。隋の煬帝は、「俀国はあったが私がつぶした」と勝ち誇っているのだ。だからこそ、わざわざ「俀国伝」を建て、それが潰れる過程を記録に残そうとしたのだ。そして、倭として朝貢したことを確認している。即ち、
「大業6年(610)、倭国(俀国ではないことに注目)、使いを遣わして方物を貢す(朝貢開始の実行)」隋書帝紀煬帝上(俀国伝の中でないことに注目)
[60]
それから数年後、隋そのものが唐に倒されて(618年)、倭国の譲歩は無意味に終わってしまって、面目丸つぶれだけが残った。
倭国の外交戦略が裏目裏目に出たことは見た。南朝に頼ったが南朝が滅ぼされた。それでは、と自ら天子を名乗ったが隋帝の一喝でつぶされた。そこで、直ぐに朝貢外交を始めたとたんその隋が倒された。今更、新興唐に朝貢を切り替えるのも癪だし、、、と、唐に遣唐使を送るのをためらっている倭国を見て、まわりの倭諸国が「宗主国、頼りにならず」と見たことは、想像に難くない。
[59] 日本書紀では607年大唐に小野妹子を遣わす、が初出
[60] 隋書は倭国を俀国として俀国伝をたてて記述し、倭国に戻ったこの項は、俀国伝の中ではおかしいので、外に、倭国伝を立てずに記述した。
● 大和の独自外交の試み 小野妹子
多利思北孤の遣隋使(607)記事に対応するような日本書紀の記事がある。
「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」 推古15年(607年?)
「小野妹子、大唐より帰る。、、、時に使主裴世清、みづから書を持ちて両度再拝して、使いの旨を言上して立つ。その書に曰く、『皇帝、倭皇(倭王でも俀王でもない、天皇のことであろう)に問う。使人、長吏大礼蘇因高等(小野妹子)至りて、、、。皇(倭皇のこと)、、、、遠く朝貢をおさむるを知る。、、朕嘉(よみ)するあり。、、故に鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして、、、』、、、と」 推古16年(608年?)
定説では、「同年事件で、同一人物裴清の倭国への使いも一致するし、両者は同じ事件を述べたもの」とした上で「俀は倭の誤り、倭も邪馬台も近畿、多利思北孤は聖徳太子」と解釈して、「遣隋使小野妹子が伝えた聖徳太子の対等外交」とする。隋への使いが「大唐」となっているのは「中国を当時唐(もろこし)」と慣称していたから」と。
一方、これに反対する説がある。古田の年代ずれ説 [61] だ。「607年は隋時代であって唐(618〜)ではない。だから、「607年」がまちがいである、例えば12年の誤記が日本書紀にある」とした説である
。それによれば、「裴清は、607年の倭の遣隋使の翌年倭に派遣され(隋書)、更に619年の推古朝の遣唐使の翌年大和国に派遣された(旧唐書)。隋書には前者、日本書紀には後者のみ記述されている。裴清は隋朝と唐朝に採用された同一人物である。」としている。
その根拠を列挙すると、
1.
俀国王多利思北孤は男王で607年当時の大和国の推古女帝は男王でない
2.
推古の替わりに聖徳太子を当てるとこんどは「天子」ではない
3.
俀国は対等外交、大和国は朝貢外交
4.
俀国王の自称は天子、隋の対応は俀王。大和国王の自称は天皇、唐の対応は倭皇(王族扱い)
隋使文林郎裴清と唐使鴻臚寺掌客裴世清は同一人物で、経験を買われての新王朝奉職となったことも理解できる。
筆者は、小野妹子の遣唐使はやはり唐になってからだろうと考える。先に見たごとく「俀国に附庸する大和が天子を自称するはずもない」が大和の独自外交の模索はあったのではないかと推測する。例えば、多利思北孤の遣隋使に同行した大和の使いがいたくらいはあり得る。
[61] 古代は輝いていた 157P 古田武彦 朝日新聞社
● 法隆寺光背銘が語る、天子自称再開
俀の天子多利思北孤は、対等外交で隋の煬帝を怒らすと、慌てて撤回して、倭に戻し、倭王にもどり、朝貢を再開し、そのとたん隋が倒れ唐となった。倭国は、隋から唐に変わって(618年)どうしたか。再び天子を名乗った形跡がある。
法隆寺釈迦三尊像は、聖徳太子を祭ったものと謂われているが、その由来を記録した光背銘には、聖徳太子の事蹟と矛盾する内容があることが、論議を呼んでいる。
「法興元31年(621年)、鬼前太后(天子母)崩ず、、、明年、、、上宮法皇(多利思北孤か、後述) 枕病余(よ)からず 、、、 干食王后仍(より)て以って勞疾並床に著く、、、、、仰いで三宝(さんぽう)に依り、当(まさ)に釈像を造るべし、、、、2月21日、、王后即世す、、、翌日法皇登遐(2月22日)す。、、(623年)釈迦尊像,、敬造し竟(おわ)る、、、使司馬鞍首止利佛師造』 法隆寺釈迦三尊像光背銘
この著名な像は、法隆寺の再建(690年頃か)時に移入安置されたと見られるが、作製から移入までの経緯はわかっていない(鏡女王との関係後述)。元々、聖徳太子の為に作られたものでないことは、以下の違いから確かめられる。
聖徳太子は、推古29年(621年) 2月5日没、その位は太子であって、天皇でも大王でも法王でもない。母は用明皇后、第1夫人の妃橘大郎女は太子没後に天寿国繍帳を作らす(638年)。
一方、光背銘の対象は、法興302年(622年) 2月廿2日没しており、年も日も聖徳太子とは異なる。その位は法皇(仏法の天子・大王・天皇)、太后(天子の母)・前日に没した后(大王ないし天子・天皇の正妻)と共に祀られている。いずれも聖徳太子の場合と異なる。
この上宮法皇が聖徳太子でないとなると、それは誰か。九州年号を使う大王もしくは天子、32年間法興元号を維持させた大王、それが法興17年遣隋使をおくった「日出ずる国の天子」その人と同1人物であることは、容易に想像がつく。多利思北孤その人だ。
610年に隋煬帝に「天子自称を取り下げて朝貢した」倭国王多利思北孤は、唐には朝貢することなく、その晩年(621)には、天子と同格の「法皇」を名乗り、后には王后(天子の后)、母には太后(天子の母)を名乗らせていた。これでは唐とうまくつきあえるはずもない。このことを示す史料がある。倭国伝と日本伝を別に立てるる旧唐書
[62] の倭国伝である。
「貞観5年(631年)、(倭国)使いを遣わして方物を献ず(貢としていない)。唐使高表仁綏遠の才なく(倭の)王子(他文献では王)と礼を争う」旧唐書倭国伝(別に日本伝があるがここは倭国伝)
どちらが上席かで争ったのであろう。宗主国唐の使いなら倭国王ですら席を譲るが、朝貢していないから当然といえば当然。要すれば、多利思北孤は天子を再び名乗り、その後継王(歌弥多弗利か)も長期間遣使せず、しても朝貢ではなく、答使(高表仁)がくれば、その王子(史料によっては王)まで争っている。
大宰府に遺存する地名「太極殿」「大裏」「紫宸殿」「北帝門」「九州(帝国全領土ほどの意味)」などがある [63] 。天子自称の俀国時代10年間だけの名残りではなく、中断の10年間をはさんで、隋が倒れて「天子自称」再開し、唐の傀儡になるまでの600年〜670年頃の70年間位に定着した地名であろう。日本の大宰府になっても「これは、斉明天皇など、日本国天皇が行宮された名残」などと称して地元が遺存をはかったと思われる。
倭国は遣唐使(631・654)を出すも朝貢せず、対する大和国(のちの日本)は遣唐使(630・653・654・659・669・702)を出し、答礼使を「天子の使い」と扱って朝貢している
[64] 。
「遣使して方物を献ず」旧唐書倭国伝631
「大唐貞觀五年(631)、、、高仁表を遣わし、、、」通典倭国伝(日本伝に記載なし)
「犬上君三田鍬を大唐に遣わす」舒明2年(630)
「大唐の使い高表仁らに『唐の天子の遣わされたお使いが、、、、』、、、高表仁は『、、、、うれしくまた恐縮に存ずる』」舒明3年(631)
それでも公式史書(旧唐書)では、倭国への高表仁の派遣は記し、大和国への派遣は記していない。それは、この時点では唐の相手は倭国(未だ断交していない)、大和国は倭国の一部だからだ。中国は外交の原則を守っている。
[62]
『旧唐書』 北宋欧陽脩・宋祁編(945)はもと『唐書』と称されていたが、後に北宋の欧陽脩・宋祁による『新唐書』が上梓されて、『旧唐書』と名づけられるようになった。編修は後晋の初代高祖の天福6年(941)から始められ、開運2年(945)までの僅か4年余りで完了した官撰書である。唐代からあまり離れていなかったので史料が多く、特に唐代前期に詳しく、本紀20巻、志30巻・列伝150巻で、合わせて200巻から成りゆうくり、後晋の宰相となった劉陶(887〜946)の撰修とされている。
[63]
邪馬一国への道標 P275 古田武彦
講談社 に詳しい
[64]
631年は旧唐書倭国・新唐書日本伝の両方に遣使がみえる。この時期の倭国使と大和使の違いは「献ず」と「朝貢」に表れる。大和は小野妹子の遣唐使以来「朝貢」を求め、倭国は天子を自称した。ただし、後述するように、唐に敗れた傀儡倭国は朝貢している(670年)が、この時期は逆に天智は日本独立模索や防備工事など、唐に反抗している。
● 冠位制度
倭国は600年には、冠位制度を持っていた。
「開皇20年(600年)、倭王阿毎多利思北孤、、、、内官12等有り、1に曰く大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、、、、」 隋書俀国伝
大和国では、603年が初出である。
「はじめて冠位を施行した。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・、、、、全部で12階である。」 推古紀11年(603年)
「1月1日、はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。」推古紀12年
2つの制度は冠位の順が違う(倭国の徳仁義礼智信の順が本来)から大和は独自に冠位を定めた、という説があるが、推古紀には「次」という順位を表す語がないから、必ずしも冠位の順が異なるとは言えない。また、「この記事は隋書の記事にヒントを得た後年の作文記事である」との説(九州王朝説)があるが、日本書紀(720)編者は、隋書(636年頃編纂)を知っているはずであるから、作文なら俀国記事(600年条)より古く書くこともできたはず。筆者はいずれをも採らない。そもそも、倭国があり、倭諸国があるとき、各国バラバラに冠位制度をもっていることは考えられない。まして、倭国王はこの頃天子を称していた。年号・冠位・貨幣・度量衡・これらの諸国共通化を司るのが宗主国天子の権利と責任である。冠位も倭国王の専管事項であったと考えられる。603年の推古紀の冠位12階の発令者は倭国王、その大和国での施行記事であろう。
● 7世紀 大和国の拡大
すでに見たように、倭国は隋に対等外交を試み失敗した。これを見て大和国は倭国のくびきから離れようと、唐へ直接接触と朝貢を試み始めた。この試みが、ただちに倭国の列島内宗主権をくつがえしたり、中国の公式認定を変えることはなかったが、しだいに列島内2強並立状況が形成されたようだ。
大和国は、倭国体制の中で勝手に領土拡張できる訳ではなく、大義名分のある場合、あるいは経済的な取引で、少しずつ領地を拡大したもとの思われる。そうした制約の中で大和国が九州に拠点を得たのは、6世紀前半以後である。
「継体天皇は九州の磐井との戦争に勝ち、九州北部に糟屋屯倉という直轄地を設けた。」継体紀22年条、
「安閑天皇は筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の膜碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉.大抜屯倉・我鹿屯倉、火国の春日部屯倉を設けた。」安閑紀2年条
「宣化天皇は那津(福岡市)に官家を修造した。」宣化紀元年条
これらがなにを意味するか、領土拡大なのか、取引なのか、またどの位の規模なのかよくは分からない。いずれにせよ、「戦闘により国単位で領土を広げていった」とは程遠い。
一方、軍隊の移動記事は、半島への派兵のために北九州に集結した記事で、このことが「大和国が九州を支配していた」ことを証明はしない。派兵の命令者が九州の倭王だった可能性が高い。
「崇峻天皇は2万余人の軍を筑紫に布陣した」(推古3年まで)。崇峻紀4年条
「来目皇子は新羅を撃つために2万5千人の軍衆を率いて筑紫に到った。」推古紀10年条
「斉明天皇は百済救援軍を率いて九州の朝倉宮に遷居した。」斉明紀7年条
第7章 白村江の戦い 倭国・大和の最後の葛藤、個人の立場と思惑 (目次に戻る)
● 百済の援軍要請
7世紀、隋が3度の高句麗征伐に失敗して衰え、618年、隋蝪帝(ようだい)は殺されて、李淵(りえん)が禅譲の形で唐(とう)を建国する。朝鮮半島においては、新羅が、高句麗と百済の両方から攻撃を受けもはや滅亡寸前だった。
ここに突然、新羅・唐軍事協定が成立した。新羅が独立を捨てて唐の冊封体制をうけいれての唐への援軍要請である。その結果、唐は655年、658年、659年と高句麗に出兵する。だが、かんばしい成果を得られず、一転、660年百済へ攻撃をかけた。百済は義慈王以下1万人以上が捕虜となって滅亡してしまった。だが、遺臣・鬼室福信達が失地回復をはかり、一時かなりの領土をとりかえした。更に、遺臣達は倭国(倭国/大和国)に対し、長年人質となっていた百済の王子余豊璋の帰還と倭国の救援を要請してきた。
この頃、天子自称を再開していた倭国王は、「質をとっている属国の国難を援けなくして何の天子か」といった自縄自縛の立場にあった。半島での利権回復・唐の勢力波及の未然食い止め・列島内百済系の熱望などを熟慮し、天子の名の下に全倭国に百済救済の大号令をかけた。これに、大和国をはじめ吉備・関東など全国が応じたものであろう。
号令をかけたのが倭国でなくて大和国(斉明)とするのが定説のようにいわれる。しかし、大和国は倭国に代って宗主国になるべく、唐の承認を得ようと唐に朝貢(630・650遣唐使)繰り返し、653年の遣唐使は、唐の高宗から新羅救援の出兵を命じられている(653)。
「、、、孝コ即位し,白雉と改元す (650)、、、、、。時に新羅は高麗・百濟の暴す所,高宗璽書を賜り,出兵して新羅を援け令(し)む。」新唐書東夷伝日本条 [65]
外交戦略上、「新羅救援」の大号令を列島に発してもおかしくない立場であって、唐と敵対する百済救済の大号令を主導する立場ではない。特に天智は国際情勢を考えて、出兵慎重派であったことが、後の出兵中止からうかがえる。しかし、斉明は親百済という点で倭国に強く同調した。行動がそれを示している。数十年慣れ親しんだ倭国「天子」の大号令に応じたのであろう。
一方、九州倭国は、唐使高表仁とのごたごた(631前出) のあと、新羅使に表を託したのを最後に中国史書から姿を消した
[66] 。
「貞観22年(648)に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。」旧唐書東夷伝倭国条 末尾
即ち、この時点以後、倭国は唐との戦いを遠慮する状況にはなかった(実力は別として)。唐と闘うことが意味があった。外交の失敗によって指導力の低下した倭国が、起死回生の賭けに出たのがこの大号令であろう。新羅と特に関係が悪いわけではないが、百済を救済したい倭諸国の賛同を得やすい格好のテーマだ。高句麗は再三にわたって、唐を撃退している。倭国にもできないはずはない、と。
大和国は、親唐派(遣唐使推進組)・百済派(救援要求)・新羅派(勝ち組便乗)・倭国派(宗主国尊崇派・血縁組・合体推進組)などが入り乱れていた。参戦を決めたのは斉明であろう。斉明は百済派であると同時に、倭国合体推進者だと筆者はかんがえている。
[65] 例外は、唐書の泰山封事記事(670年 後出)だ。 次の新唐書東夷伝では、倭国条はなくなり、日本条だけになる。「倭」の字が出てくるのは3箇所だけである。倭国はなくなったのだ。「日本,古倭奴也、、、、或云日本乃小国、為倭(神武)所并(あわす)、故冒其號、、、、、惡倭名,更號日本、、、、、」新唐書東夷伝日本条
● 斉明天皇 九州へ その執念
当時の斉明天皇は68歳、倭国・倭諸国のトップ達の中でも最長老 であろう。聖徳太子がなくなったのは、斉明が29歳の時だ、天皇1族として生前もちろん面識があるはずだ。阿毎多利思北孤・推古帝が亡くなったのはそれぞれ29・30・35の時。いずれも、見識のあるスケールの大きい指導者だった。そうゆう時代を動かしたトップ達を知っているものは、もう斉明しかいない。
「倭国は唐とうまく付き合えない。大和国は遣唐使を送っても、一人前に扱って貰えない。これでは、国際的な影響力を半島に及ぼすことなどできない。近畿王家と倭王家はけんかをしている時ではない。中大兄皇子には倭国の姫をもらいうけよう。大海人皇子には、近畿王家の姫を嫁がせよう。」 そんな思いと戦略が斉明にはあったと筆者は考える。
● 大海人皇子の謎
舒明・斉明間の第2子として天智と共にそだてられ、天智即位のあと大皇弟となった大海皇子に、中大兄皇子は自分の娘を4人も弟の大海人皇子に嫁し付けている。異常とも思えるこの事実には、普通にない背景があるにちがいないと議論を呼ぶ。「本当に兄弟なのか?」、実は大海人皇子の方が、中大兄皇子よりも4つ年上だという。ここから、義兄弟説や、貴胤説、倭国王皇子説、倭国王説、筑紫の君薩野間説などが出ている。
大海皇子が冠位制定に何か特別な立場にいたことを推定させる記事がある。
「三年(六六四)春二月九日、天皇は、大皇弟に命じて、冠位階名を換えて増加すること、および氏上・民部・家部などのことを告げられた。」天智紀(冠位二十六階制定664年)
「東宮太皇弟が詔して、冠位・法度のことを施行された。」 天智十年(671年)
かって、多利思北孤が冠位を制定し(600年以前)、推古が施行(603年)したような関係がこの時代(671年は壬申の乱の前年)にもあって、天智は冠位の制定に倭国の了解を必要とし、大海皇子にその仲介をさせたのではないか?
しかし、想像だけならなんとでもなるが、情報がない以上、詳細な仮定は無理だ。筆者は、「大海人皇子は、倭国王家となんらかの血脈でつながっていた」と仮定するに留めたい。
● 鏡女王 倭国王家との血縁?
鏡女王(かがみのおおきみ)はのちに藤原鎌足夫人となった。鎌足夫人になる前は天智妃だったといわれ、天智のもとに来た時(643)、鏡女王は孕んでいたという。これには孝徳天皇の落胤説(談山神社縁起)と、倭国王家の落胤説がある。天智は、子が女ならば引き取って育てるが、男ならば与えると言って、彼女を鎌足に与えた。生まれた子は男の子だったので鎌足の長男として育てられた
[67] 。貴族の娘を取り込んで係累をふやす藤原氏の姻戚政略を天智と鎌足が実行したようなケースだが、天智の場合は狙いはもっと大きく、倭国と大和国の合体だったのではないか。というのも、鏡女王は鎌足私宅の山科寺に住み、釈迦3尊像を安置したという。鏡女王の死後、この釈迦3尊は藤原不比等によって興福寺に引き取られ、いつか法隆寺に安置されたという。この釈迦3尊像が多利思北孤に由来することは見てきた。鏡女王が多利思北孤ゆかりの姫であったことを想像させる。どこまで本当か、わからない。
[66] 幼名真人。九歳にして仏門に入り(政争から隔離か)定恵と号す。12歳にして唐に渡る(温存策か、追放か)。21の歳(664)、帰国する(出番が来た?)が二ヶ月後に、暗殺された(倭国再興の反対派に?)
● 白村江の敗戦
斉明軍は、難波を発った。、斉明のたってのこだわりで、自ら向かうことになったといわれる。なにしろ、68歳の女帝の出陣は異常だ。額田女王(中大兄皇子賓、当時大将の出陣に妻がついてゆくことは珍しくなかった [68] )・身重の大田姫皇女(大海人皇子妃、大海人皇子が先行して筑紫に居たからであろう)も同行した。これら女性等は倭国への人質説もあるが、いやいやでないことは万葉集の歌からも読み取れる。1月に出て、時間をかけ、4月筑紫朝倉宮に着かれた。
しかし、旅の疲れか、7月にあっけなく斉明は没してしまう。皇太子中大兄皇子が称制天皇(後に正式に即位して)天智天皇として、政務を引き継いだ。斉明軍は喪に服して動かなかった。
「8月に、前軍、後軍を遣わして、百済を救援させ、武器や食糧を送らせた。9月、皇太子は軍兵5千余をつけて豊璋を本国に護り送らせた。
皇太子は10月、天皇のなきがらを飛鳥に送り届け、長津宮にもどった。
2年3月に前軍中軍後軍2万7千人を率いて新羅を伐たせた。
天智2年、日本国の救援1万余海を越える。大唐の将軍は軍船百70艘を率いて、白村江に陣をしいた。日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から船をはさんで攻撃した。たちまちに日本軍は破れた。水中に落ちて溺死(できし)する者が多かった。百済王豊璋(ほうしよう)は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。
9月7日、百済の州柔城(つぬさし)は唐に降服した。」天智2年条抜粋
こうして日本は大敗した。いささかそっけないのは抜粋だからではない。原文が他人事のような調子である。
記述にもあるように、百済・倭連合軍は稚拙な戦いをしたようだ
[69] 。筆者自身、白村江を訪れた際、その干満差の大きさ(4米)に驚き、上げ潮・下げ潮、干潟の広さを熟知しないと船は泥に乗り上げ身動きができなくなると素人ながらに地元水軍の重要性を感じたものである。200q北の仁川(じんせん)は世界最高クラスの潮位差(8m)、満干で沖合い数キロが干上がるという。
7世紀は、朝鮮半島にも劇的な国際関係の変化をもたらした。隋が高句麗との戦争で疲弊したあと、代わった唐は高句麗の背後、新羅と手を組み、まずは百済を攻め、これを滅ぼした。次いで百済再興派と倭国連合を新羅と組んで下し、次いで高句麗を滅ぼした。
[67] その例 「当摩皇子を新羅を討つ将軍とした。、、、難波から船出した。、、、そのとき従っていた妻の舎人姫王が明石で薨じた。、、、そして当摩皇子はそこから引き返し、ついに征討はやめになった。」 推古紀11年
[68] 「『白村江』以後」 森 公章 講談社選書メチエ P146 など。
第8章 戦後の体制 二転三転する日本建国構想 (目次に戻る)
● 戦後処理
白村江敗戦の半年後(664)、百済の鎮将劉仁願が郭務綜を派遣してきた。戦後処理の交渉であろう。
「夏5月、百済鎮将劉仁願、郭務綜等を遣わす」天智紀
唐使は665年、667年にも来ている。
「9月23日唐は劉徳高、郭務綜等254人を遣わしてきた。9月20日に筑紫に着き、22日に上表文の函を奉った。」天智紀4年(665)
唐の正使が国書を持って筑紫に着き、2日後に国書を提出し、翌日会ったということは、筑紫に国書の宛先の国王、即ち倭国王がいたということだ。
敗戦後にきたのは、敗戦処理交渉使だけではなかった。情報戦がはじまった。朝鮮の「海外国記」が伝える。
「668年、唐は「倭国討伐」を理由に軍船を修理したが『新羅討伐』の為と噂された。」海外国記
唐が「倭国討伐」を唱えるからには、倭国は未だ存続していた、ということを示す。
● 天智即位 「日本」の昇格(国号化)と「倭」の矮小化(地方名化)
日本書紀では、戦後最初の記事は冠位の大増加である。
「三年(664年)春二月九日、天皇は、大皇弟に命じて、冠位階名を換えて増加すること、、、、などのことを告げられた。」天智紀(冠位二十六階制定664年 前出)
これを、「倭国滅亡で喜び勇んだ大和のお祝い」とする説もあるが、筆者は「倭国難民貴族の大量受け入れ」と推定する。
そんな中で、天智が即位した(668年)。なぜ斉明の没後6年も即位できなかったか、なぜすぐに大和に帰還できなかったか、謎が多い。
次の史料も謎の一つである。
「(新羅)文武王10年(670年)、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う、『日の出づる所に近し。』と。以って名と為す。」三国史記 新羅本紀文武王紀
倭国が改号したというのだが、この史料以外にこの事を直接記するものはなにもない。後世の「倭国(総国)の日本改号(702)」記事をこの年にはめ込んだのだろうと言われている。しかし、「倭国(総国)でなく大和倭国(分国)が日本に改号した」と解釈すると、天智の改号宣言が実在した可能性はある。少なくも、新羅は受け容れた可能性はある。大和は古来日本と呼ばれていた事実もあるから、その公式化とも言える。この改号に従ったと思われる次の史料がある。
「日本国の使、至る。」三国史記 698年
この年は倭(総)国の日本改号(701 後述 )前であり、大和日本のことである。
唐にもこの改号は伝えられたに違いないが、唐は認めなかったようだ。唐は、直ちに郭務綜等2千名の進駐軍を派遣して牽制した(670)。
この改号と同時に670年を境として、「やまとの表記を山跡(もしくは山常・8間跡)から倭(やまと)にかえた」事実があるという(万葉集分析から)
[70] 。すなわち、奈良の「倭(やまと)」表記は670年に始まるとされ、古事記・日本書紀もこれに倣うと言う。
坂田によれば [71] 、
1.
山跡(やまと)は古来、現在の天理市大和郷あたり(奈良と飛鳥の中間あたり)を指す。
2.
山跡の当て字が「倭(やまと)」に変ったのが670年。
3.
天武時代に、この「倭(やまと)」が飛鳥をも含めて指すように拡大された。
4.
この拡大領域を大倭(おおやまと/やまと)とするのは、ここを日本の国都とした701年以降。
5.
「大倭」を「大和(やまと)」に代えるのは757年
即ち、670年大和国はそれまでの母国である倭国から独立して自らの他称古名である「日本」を名乗り、都のひざもと(奈良)を自称古名である「山跡」から母国名の「倭」の字に代えた。日本の昇格と倭の矮小化である。
書紀の「日本(やまと)」は古事記の「倭」に対応し、やはり670年以降の事蹟に使われる。ただ、一部大和国の他称古名として出てくる。
天智は一地方名であった「日本」を大和の国号に昇格させ、分国名「倭」は一地方名である「やまと」に当てて矮小化したのだ。「いずれも過去からの慣用」という大義名分は主張したであろうが、倭国への対抗心むき出しである。
[69] 九州王朝の歴史学 153頁 古田武彦 駸々堂 1991
[70] 日本の国号 坂田隆 青弓社 1993年
● 唐軍の進駐
この間、倭国はどうなっていたのであろうか。九州防衛や改号など、天智の独走を見てか、唐は圧力を強めた。
「唐の郭務悰と2千名が九州に上陸した」天智紀(670)
「唐の郭務悰と2千名が、捕虜の筑紫の君薩野間 [72] を返還して九州に駐留した」天智紀(671年)
百済で成功しつつあった傀儡政権方式を倭国にも適用する方針を示したに等しい。唐は薩野間を傀儡倭王に任じた可能性もあろう。それまで唐に朝貢したことのない倭国が、唐が高句麗を滅ぼしたことを賀す朝貢遣唐使を送った。倭国は、傀儡化したのだ。
「咸亨元年(670)3月、使いを遣(つかわ)し高麗を平らぐを賀す。爾後、継(つづけ)て來りて朝貢す。」唐会要倭国伝
大海皇子を軸に、倭国と対等合体、ないし吸収合体を図りたい天智にとって、傀儡倭国の出現は構想の後退であろう。長年の大和の独自遣唐使による朝貢は意味を失い、倭国を代表する朝貢は傀儡倭国からとなった。一説に「670年の使いと朝貢は、繰り返しの遣唐使と同じように大和の天智が遣わした」とする論があるが、この年天智は一地方名の「日本」を国号に昇格させ、分国名「倭」は一地方名である「やまと」に当てて矮小化している。「脱倭国」を鮮明にしたのだ。倭国として朝貢するはずがない。
倭国が唐の傀儡で小さく続くようになると、大和国の天皇位を血脈の薄い大海人皇子に譲位する必然性が失われた。天智はそれとなく弘文を重用し、ついに太政大臣につかせた。それが壬申の乱となってゆく。
[71] 筑紫の君薩野間 囚われる前倭王であったとする推定もある。しかし、磐井の乱の筑紫の君や裴清の報告書の筑紫国でわかるように、筑紫の君≠倭王 である。
● 壬申の乱
天智10年(671)大海皇子は出家し、天智没し、翌(672)6月壬申の乱が始まる。初めは大友皇子との皇位継承戦争だったが、大海人皇子が美濃を頼った辺りから、「天智派=日本(の倭国からの分離)独立派(唐支配忌避派)」対「その他の倭諸国=反日本分離独立/倭国継続派(大和ばかりいい顔するな)」との戦争に姿を変え、唐が(傀儡)倭国の側(日本独立阻止)として、大海人皇子に加勢した。そもそも、仕掛け人は唐だった、とも言われている。
勝った大海人皇子/天武天皇は傀儡倭国に協力的な倭諸国筆頭の近畿王となった。傀儡倭国は唐の傘の下で九州を地盤にしているに過ぎなかったが、倭諸国の「大使」とも言うべき代表を集めたと思われる。大和国の送った「大宰の帥」は、九州代官と言うよりは、九州の「大和国代表部」として、唐の方針を大和国に伝える役割が実態ではなかったろうか。
● 唐の撤退
ところが、傀儡倭国にとって不測の事態は、唐が半島で新羅に負け(687)、内政重視の本国方針変更が重なり、九州から撤退してしまう。それは、天武崩御(686)後のことだが、その兆候は天武政治10年のあいだ、徐々にはっきり出てきて、唐の度重なる後退に反比例して天武の自由度は増していった。後ろ盾を失った傀儡政権は徐々に弱まり、主客が逆転して天武が主導権を取るに至った。だが天武も生前、倭国の解体までは手をつけなかった。つぶそうと思えばいつでもできるが、利用する方が賢かった。倭国は形の上で宗主国として生き残った、というよりも生かされてきた。唐との交渉は、唐の承認あった倭国ルートしかない。唐の撤退後、天武・持統/文武は国内整備に追われた。邪魔をする勢力は無かった。
天武時代には、宮中の御殿の名称が変わった。天武の前の天智、後の持統では内裏と称した中心御殿は、天武の時代、大極殿と変えられた。大宰府に遺存するあの「大極殿」だ。大宰府の長年の宮殿名称「大極殿」に倣って、天武が内裏を名称変更したと思われる。天武の倭国志向の表れであろう。
第9章 倭国の終焉と日本建国 (目次に戻る)
1.
日本の建国と倭国の終焉
天武崩御の後、皇后であった持統が即位し、父天智の遺志を継いで、今や唐の後ろ盾を失った九州倭国の解体吸収に手をつけた。天武の「倭国継承」策と異なる「(大和国改め)日本国による倭国吸収併合(新総国日本建国)」を実行に移した。
持統の皇太孫文武は697年「倭国の正統後継である神武以来の日本国(倭国の分国ではなく独立国と自認=天智の日本)」の天皇に即位し、改めて倭国(総国)を逆併合して「日本国(総国)」を建国し、その天皇に即位(701)した(これにより旧唐書・新唐書の理解が可能となる)。ここに、倭国(総国)は終焉し、日本国(総国)が始まった。同時に、年号を建てて大宝とした。
「3月、対馬嶋が金を貢ぐ。建元して大宝元年と為す。」続日本紀701年条
「建元」とは「改元」と異なり、元号を新たに建てることで、新王朝の始まりを意味する。これまでも、大和国には断続的に元号が存在したが、すべて改元である。つまり、この史実は「(新)日本国の建国」だったのである。この点、日本書紀は後に、「日本国建国は神武であり、万世一系同一王朝が続いた」とするが、それは後知恵である。
● 日本国の遣唐使
翌年、文武は遣唐使を派遣して承認を求めた。遣唐使は総勢160人、代表粟田真人、萬葉(まんよう)歌人として有名な山上憶良が随行した。その結果は唐の史書「旧唐書 」に表れている。この中でまず注目すべきは、東夷伝の中に、高句麗・百済・新羅と並んで、倭国と日本国の条が並んで建てられていることである。中国の歴史書としては、それまでの認識である「倭国」とは別の「日本国」を初めて認定した条文である。
まず、従来の倭国条は、
「倭国は古の倭奴国なり。、、、、世々中国と通ず。、、、、、その王の姓は阿毎氏、その字は多利思北孤、、、、、官を設けて12等あり。、、、、貞観5年(631)、使いを遣わして方物を献ず。、、、高表仁を遣わし、、、綏遠の才なく、王子と礼を争い、、、、22年(648)に至り、また新羅に附けて表を奉り、以て起居を通える。」旧唐書列伝東夷倭国条
ここで倭国と認定しているのは、倭奴国・俀国を経て、608年に倭国に戻ったその倭国である。その倭国は唐に朝貢せず、単に「献ず」としていることも記して、従来の歴代中国史書の認定を繰り返している。その後631年に遣唐使を出しながら朝貢することなくわずか2件の事蹟をしるすのみで、断交したとか滅亡したとかは記していないが、記録はここで終っている。歴代の中国と国交したのは日本国ではなく、多利思北孤の倭国であると認定している。隋書風に言えば「この後遂に絶ゆ」なのである。倭国は「事実上終焉した」のである。
これに対して、新たな日本国の条は、
@
日本国は倭国の別種なり。その国は日の辺に在るを以て、故に日本を以て名となす。
A 或はいわく、倭国は自らその名の雅しからざるを悪み、改めて日本となすと(倭国=日本)。
B 或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併すと。
その人の入朝は多く自ら衿大にして、実を以て対せず、故に中国は疑う。、、、」旧唐書列伝東夷日本条
日本は、倭国と日本国の関係を@別の国、A同じ国、B併合した、と矛盾する3つの説明をしたので、聞いた中国は説明に疑いを持ち、「故に中国は疑う。」と述べている。そして、@だけを認め、国交開始の証として日本条を立てた。それ以外は日本の主張A・Bを記すにとどめて認めてはいない。また、大和国の過去の遣唐使(607?、631、653、659など日本書紀記述)も史書には載せていない。703年からの事蹟を載せ、そこから初めて国交が始まったとの認識を示している。
● 中国の立場と唐の立場
旧唐書は「中国は疑う」とあり、「唐が疑う」とはなっていない。これは、王朝それぞれの立場とそれを越えた中国の立場が異なるからだ。例えば、「唐の立場」は、
「漢を正統に継承した魏・西晋、その西晋を継承したとする北朝系の北魏・隋・唐が正統王朝である。西晋を倒した東晋(317〜420)・宋・斉・梁・陳等南朝系は偽王朝である」
一方、「中国歴代史書の立場」は、歴代王朝の立場は立場として尊重しつつ、冷静に史実を記録するものだ。その観点から、たとえ唐からみて偽王朝であっても「宋書倭国伝」を認め、「倭国は、、、世々中国と通ず。」とし、「多利思北孤」も「高表仁」記事も倭国の事実として認めているのだ(旧唐書列伝東夷倭国条)。過去の事実(南朝との交流)を現在の立場(南朝は偽王朝との主張)から隠滅するようなことはしていない。遣唐使にも「倭国の隠滅」を要求した気配はない。
では、なぜ中国は日本の説明を疑ったのか、史実と違うことを主張したのか。もう一度、日本の主張を検討してみよう。
● 新唐書の理解
もう一つの唐の正史である新唐書の関連記事を参照しよう。なぜなら、その後の日本の主張を8世紀・9世紀に亘り繰り返し聞いて、ようやく彼らが理解したところが記されているからだ。日本の主張が次のようであったことがわかる、
「倭国は歴代九州に都したが、@神武の時東征してやまとに建国した。Aこの小国は倭国からみて東方の地なので倭国の人たちに日本と呼ばれていた。Bこのちいさな日本は倭国王族による倭国拡大であり、倭国の1部となったのであるから、やはり倭国(分国)と称した。その後、Cこの倭国(分国、他称日本、自称やまと)は倭国の名を良くないとして日本国と改号した(670年)。そして、D701年、日本国は(郭務綜によって傀儡化した)倭国(総国)[73] を合併して新日本国(総国)となった。」と。
新唐書にはこの理解が次のように記されている。
「日本は古(いにしえ)の倭奴也。、、、其の王の姓は阿毎氏、、、皆「尊」を以って號と為し,筑紫城に居す。、、@神武立ち「天皇」と号す、、、大和州に治(みやこ)す。次綏靖、、、(歴代天皇)、、、次用明,亦(また)目多利思比孤という、、隋の開皇末(600)、始めて中国と通ず。次崇峻、、、高仁表往諭、、、孝コ即位、、、令出兵援新羅、、、C倭(総国?)の名を悪(にく)み日本と更号す。或いは云う、B日本は小国,倭の并(あわ)す所と為る。故に其の號を冒す。使者は情を以ってせず、故にこれを疑う。」 新唐書日本伝
[74]
事実を究明して記した旧唐書に対比して、大義名分を追求した新唐書といわれる。日本の大義名分の主張に理解を示しつつも、倭総国・倭分国・分国日本・総国日本の違いと時期には相当混乱し、首をひねった様が目に浮かぶ。「なんでこんな小さなちがいにこだわるのだ、何かやましいことでもあるのか」といっているようだ。
それでも、@が認められて703年の遣唐使の目的は達せられた。日本国は列島の代表として唐との修交がはじまった。
ついでに指摘したい点がある。新唐書は「隋の開皇末(600)、始めて中国と通ず。」としている点である。日本は「607年に大和は大唐(隋)に小野妹子を(初めて)遣わした。」(日本書紀の主張)と言っているが、撰者は「607年の使いの主は多利思北孤だ。これが日本使であるならば、600年の多利思北孤の使いも日本使であろう。これが(日本が)中国と通じた初め」と考えたとしても不思議ではない。日本の主張を鵜呑みにした結果、旧唐書の正しい認識「多利思北孤は倭国であり日本ではない」から外れてしまっている。その結果、用明=多利思北孤という誤解まで発展している(用明天皇 在位2年 585〜587、多利思北孤 在位32年 590〜622 目は代理の意味ともいう)。誤解ではあるが、新唐書は日本の主張を主張以上に理解しようとしている。
[72]
この倭国は唐の撤退によって天武の支配下に帰した倭国であり、さかのぼれば ↑ 日本を失った倭国、↑ 郭務綜によって傀儡化され唐に朝貢した倭国↑ 唐代になって唐へは朝貢せず白村江の対唐新羅戦を主導した倭国↑ 隋煬帝の一喝にあって倭国に戻って隋に朝貢した多利思北孤の倭国↑ 俀国
[73] この文章は、日本の遣唐使が説明した三種の正統性の説明の内、唐側が納得した部分を記したもので、真実というよりも、日本書紀の主、日本の見解の一つである。「日本とは筑紫城にいた倭国王の子神武が東征した、だから、日本は倭国の正統な後継者だ」と言いたいのであろう。更に主張して、「神武以後は、宋書倭国伝の倭の五王(九州倭)も、隋書俀国伝の多利思北孤(九州倭)も、正当な倭国ではない。」と主張したであろう。唐側は、そこまで採らず、日本は倭国の分岐、別種だと認定した。
● 日本書紀の立場
こうして、日本遣唐使は曲りなりにも目的を果たして、日本国は唐の認める所となった。しかし、もう一つの主張「日本は神武以来、正統な倭国代表である」は認められなかった。「日本と倭国は別」とする唐の理解に沿って、日本書紀では「他国」である倭国の事蹟を記さない方針とした。
しかし、国内向けには最大限日本の正統性を主張した。漢文に弱い国民に振り仮名で「神武以来、山跡(やまと)が倭(やまと)であり、大倭(やまと)も大和(やまと)も日本(やまと)である。」と教えた。海外に通用する理屈ではないが、振り仮名を利用して、理屈ぬきに「日本は倭国」を繰り返し刷り込む手である。確かに、神武以来やまとが倭国(分国)と自称し、(近畿が)日本と他称されたのは事実であろうから、まったく根拠の無い話ではないが、国家権力で強引に通したのである。
●
大和の正統倭国論 [75]
更に、大和は正統な倭国で九州倭国は偽倭国であると主張した。
@「昔、倭国の卑弥呼・台与は漢の正統継承国「魏・晋」に朝貢した。
A
この正統な晋(のち西晋)を倒した東晋以降南朝は正統ではない偽王朝である(東晋317〜陳)。この偽王朝(特に南宋)に朝貢した九州倭国は偽倭国、それに組みしなかった大和倭国が正統倭国である。」
B
更に「魏の正統継承国北魏の流れを汲む北朝系の隋は正統な王朝であるが、九州倭国系の俀国(〜600〜607)は正統王朝隋から否定された偽倭国である。
C
白村江以前(618〜664)に唐に朝貢したのは大和である(これは事実。九州倭国は朝貢していない。ただし、中国は大和の朝貢を公認していない)」と。
こうして「九州倭国は317年以降703年に至るまで一貫して偽倭国、正統な倭国は一貫して大和国=日本」という論理が成り立つ。
そこで、日本書紀の編集方針は以下のごとくであったと思われる。
(1)「南朝=偽王朝」の論理に従って「南朝(317年〜)との交流史カット」。
(2) 可能な限り「北朝との交流」示唆。結果的には、魏志倭人伝・遣隋使の示唆。
(3) 唐は倭の隠滅を求めた訳ではないが、天皇家の確立の為に自ら倭のカットを決めた。
(4) 大和国と旧日本は遡って倭に替える(日本の他称、倭(分国)の自称があり、嘘ではない)。
(5) 倭国記事は、倭国と書かずに取り込む。正統倭国として当然のこと。
[74]
● その後の日本書紀と倭国
日本書紀は倭国存在の記録をカットする一方倭国の事蹟を記している。九州王朝説ではこれを「盗用」としてきた。しかし、大和国のみの事蹟と明記もしていないので、「嘘、盗用」とは言えない場合が多い。例えば、列島統一戦や半島出兵などは倭国主導のもとに大和が参戦した可能性があり、この場合参戦記事を「盗用」とは言えない。
日本書紀の記述には、隠滅だの盗用だのとは言わせないそれなりの根拠・大義名分・建前が用意されているが、それでも「偽り」すれすれに見える点は多い。それは、日本書紀の目的が、「史書」というよりは「主張書」にあった為だ。そして、いずれの史書も多かれ少なかれ主張の書であることは免れられないが、史実を求める後世の多くにとっては「大切なものをたくさん失った」のも事実である。しかし、倭国の事蹟を大和のものと積極的に偽るのは、8世紀も後半になってからではないか(万葉集など)と考える。
こうして、日本書紀が完成した。
「舎人親王、勅を奉じ日本紀を修む。ここに成りて奏上す。紀30巻系図1巻」続日本紀720年
完成の翌年(721)には早くも、宮中において博士が貴族たちの前で講義するという機会、書紀講筵(こうえん)が公的に設けられた。これは、開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、日本書紀の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられたという。
残る問題は国内史料だ。結局どうしたか。遣唐使帰国後の708年、望ましくない書物を禁書として没収した。どのような書物が禁書かは推して知るべしであろう。
「和銅元年(708)、和銅元年とし、、、大赦(たいしや)を行う。、、、死罪以下、罪の軽重に関わりなく、、、すべて許す。、、、、山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。」 続日本紀
以後、日本国はこの主張を繰り返し、次第に他国も「日本の主張」として認知してゆく。倭国は終焉した、卑字の倭国も偽倭国も、そして本当の倭国も忘却の中に失われた。
第10章 倭国、なんだったのか (目次に戻る)
● 倭国、過大評価とその原因
倭国が日本書紀からはカットされたことを見てきた。始めは単なる「カット」が、しだいにエスカレートすることは容易に想像されるが、ここでは詮索しない。とにかく、カットが完璧だった故に、後世真実を明らかにすることが困難を極め、古代史家は霧の中に僅かな手がかりを見つけては欣喜雀躍することが繰り返され、邪馬台国論争を繰り広げ、九州王朝説を勇気付けてきた。期待が大きかったし、過大に期待した。
だが、概ね明らかになった今、冷静に眺めれば、九州倭国は、無視の一方で過大に評価されもした。
@ 魏は、九州以遠に多くの倭種・倭諸国があるらしいことがおぼろに解って、卑弥呼を倭国王ではなく、親魏倭王とした。
A 倭の五王は、鉄の武力で半島へ、列島へ進出するが、一時的な、また点と線の制圧に過ぎず、実質支配は九州を出なかった。
B 俀国の多利思北孤は、外交を通じて先進的律令・仏教・美術などを得て宗家の権威を延命させたが、頼りすぎた外交の失敗が命取りになった。
C 敗戦と唐の傀儡化で、倭国の権威と指導性は決定的に失われ、人材、文物の大和への逃避で、大和の後進性は一気に解消したと思われる。
● 海峡国家に終る
最後に、「倭国は海峡国家に始まり、海峡国家に終わる」との視点である。倭国は朝鮮半島にも分布する倭人の海峡国家として始まり、倭国王自ら征戦を繰り返し、半島に、列島に拡大してゆく。5世紀以降は、列島倭諸国の支配をゆるめて、神武に始まる倭国系大和国を通じた間接統治に委ね、倭国本体はもっぱら半島経営に注力してゆく。しかし、倭国は新羅半島統一と共に半島の権益を失っていった。
倭国は「海峡国家」から「列島国家」へ変身できたはずなのに、半島へこだわり続け、白村江で唐・新羅連合軍に破れ、列島の大和国を筆頭とする倭諸国を残して滅亡してゆく。なぜか。従来、半島の権益・百済王家との血脈などがこだわりの理由として重視されてきた。諸外国と競ってゆく中で培われる多民族共通の常識・実利をベースとしたから、列島内陸部の祭祀的精神としだいに距離感をもったこと、大和と役割分担するうちに、列島への直接的影響力を失っていったことなどもあろう。しかし、倭人の出自が半島にまたがる海峡国家だったことをもっと重視しなければならない。そのこだわりは、我々の想像を超える深い根源的なものと思われる。半島が父祖の地、深い望郷の念、祖先への絶ち難い思いがあったのであろう。現在の我々はそれを失い、理解できないでいるが。
● 失われた半身
もともと合わせて1人前のものを、倭国と大和国は二分してきたのではないか。諸外国と競う中で培われる国際感覚・国際標準・歴史観・論理性・合理性などが倭国にはあり、情緒・自然との一体感・仲間意識・和・事実よりは建前などは大和にあり、それぞれ分担して補完してきたものが、ある日片方が失われた。残った大和が残されたものだけで今日に至る日本を創った、それが今日まで続く祭祀国家日本であると筆者は考える。
「失われた倭国」、そこに日本人が久しく失ってきたもの、「失われた半身をさがす」 [76] ような、憧憬と何故か知らぬなつかしさを感ずるゆえんが存るのではないだろうか [77] 。 了
[75] プラトンの「饗宴」
[76] 「そうあってほしい」願望が倭国像を創る傾向もあるが、あってはならないことだ。
参考文献 (目次に戻る)
● 古事記と日本書紀
日本の古代のことは、「古事記」と「日本書紀」の2つの歴史書に書かれている。2つとも勅撰の歴史書で合わせて「記紀」とよばれ、諸家伝と異なり国の力を傾けた豊富な資料に基づく信頼性がある。
古事記
序によれば、天武天皇が「諸家伝を集めた帝紀および本辞の誤りを正して後世に伝えよう」、と企画したのが始まりとある。舎人である稗田阿礼に読み習わせたものの天武天皇の崩御で中断。その後元明天皇が太安万侶に命じて続行させ、和銅5年(712年)に元明天皇に献上された、とその序に記されている。しかし、正史である日本書紀の編纂が進行しつつあったので、古事記は正式に公開されることはなく、鎌倉時代に偶然写本が見つかるまで、その存在は知られていなかった。
日本書紀
同じく天武天皇の命で、これと並行して進められた国史「日本書紀」編纂は、天武10年(681)「帝紀及上古諸事」の編纂詔勅により、川島・忍壁皇子を責任者に多くの人物が関わって開始されたと見られ、元明天皇時に舎人親王(天武の皇子)によって、奏上された諸外国の史料の検討も加えて、養老4年(720)に完成した。『日本書紀』30巻は、わが国最古の勅撰の国史で、神代から持統天皇の時代までの出来事を、漢文により編年体で記している。『日本書紀』には、「一書に曰く、…」という形で、多数異伝が載せられて、公平を期する体裁をとっている。
● 参考にした中国の史書
「漢書」 前漢(BC202年-AD8年)約200年間の歴史紀伝体で、前漢の成立から王莽政権まで。後の正史編纂の規範。
後漢時代に班固が撰録。「地理志」に倭のことが1行だけ記録されている。「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国をなし、歳時を以って来たり献見すという。」
「後漢書」 後漢(25-220)の約200年間、5世紀南朝宋の范曄(はんよう)の編 倭国について 東夷伝。魏志倭人伝を基にしている。
「三国志」 魏・呉・蜀(220-280)の60年間、4世紀西晋の陳寿になる。魏誌倭人伝がある。 卑弥呼のことを詳述している。
「宋書」 宋時代(420-479)の60年間、梁の沈約の撰。「倭の五王」を伝える。
「隋書」 隋(598-618)の20年間、魏徴らにより完成(656)。「日出ずる国の天子、云々」の対等外交を伝える。
「旧唐書」 唐(618-907)の290年間、官撰書 後晋の宰相となった劉陶(887〜946)の撰修とされている。 倭国伝に並んで、「日本国伝」が初出する。
「新唐書」 唐(同右)成立は11世紀、
● 参考にした朝鮮の史書
「三国史記」 韓国に残る歴史書には、12世紀にできた『三国史記』と、13世紀にできた『三国遺事』、それから、『三国史記』のもとになった『旧三国史』の逸文がある。これより古い史書が残されていないが、百済の武寧王陵が発掘され、そこから出土した墓誌とこれら史書の内容が一致したことからその正しさが見直された。
● 国内参考文献
参考文献は、主たる場合を除いて必ずしも文中で引用に言及していない。ここに、これら多くの先達の成果を活用させていただいたことに厚くお礼を述べる。
古田武彦 「邪馬台国」はなかった 朝日新聞社 1971年
井上光貞 飛鳥の朝廷 講談社 1974年
久松潜一 万葉集 講談社 1976年
次田真幸訳 古事記 講談社 1977年
古田武彦 邪馬一国への道標 講談社 1978年
西岡常一・小原二郎 法隆寺を支えた木 NHKブックス 1978年
朝日新聞西部本社編 古代史を行く 葦書房 1984年
大和岩雄 「日本国」はいつできたか 六興出版 1985年
古田武彦 古代は輝いていた 朝日新聞社 1985年
安本美典 古代九州王朝はなかった 新人物往来社 1986年
古田武彦 よみがえる卑弥呼 駸々堂 1987年
安本美典 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 大和書房 1987年
田村圓澄編 古代を考える 大宰府 吉川弘文館 1987年
井上光貞 訳 日本書紀 中央公論社 1987年
小林恵子 白村江の戦いと壬申の乱 現代思潮社 1987年
C.L.ライリー古田武彦訳倭人も太平洋を渡った 八幡書房 1987年
古田武彦 古代史は沈黙せず 駸々堂 1988年
西岡常一 木に学べ 小学館 1988年
家永三郎・古田武彦 聖徳太子論争 新泉社 1989年
金 両基 物語韓国史 中公新書 1989年
林 青梧 「日本書紀」の暗号 講談社 1990年
川添 登 「木の文明」の成立 NHKブックス 1990年
古田武彦編 シンポジウム 倭国の源流と九州王朝 新泉社 1990年
中山千夏 新・古事記伝 築地書館 1990年
古田武彦 九州王朝の歴史学 駸々堂 1991年
上田正昭他 謎の五世紀 学生社 1991年
古田武彦 日本古代新史 新泉社 1991年
米田良三 法隆寺は移築された 新泉社 1991年
高田良信・入江泰吉 法隆寺国宝散歩 講談社カルチャーブック
1991年
吉留路樹 倭国ここにあり 葦書房 1991年
門脇貞二 吉備の古代史 NHKブックス 1992年
古田武彦 古代史を開く独創の13の扉 原書房 1992年
坂田俊文・高田良信 再現・法隆寺壁画 日本放送出版協会 1992年
古田武彦他 神武歌謡は生きかえった 新泉社 1992年
宇治谷 孟訳 続日本紀 講談社 1992年
近江昌司他 大和王権の成立 学生社 1992年
関 裕二 謀略の女帝 持統天皇 フットワーク出版社 1992年
林 青梧 「日本」建国 講談社 1993年
米田良三 建築から古代を解く 新泉社 1993年
大和岩雄 日本にあった朝鮮王国 白水社 1993年
坂田 隆 日本の国号 青弓社 1993年
笹山晴生 日本古代史年表 東京堂出版 1993年
家永3郎 古田武彦 法隆寺論争 新泉社 1993年
古田武彦 古代通史 原書房 1994年
古田武彦 人麻呂の運命 原書房 1994年
小林恵子 解読「謎の四世紀」 文芸春秋社 1995年
黒須紀一郎 覇王不比等 作品社 1995年
小林恵子 解読「謎の四世紀」 文芸春秋 1995年
小石房子 暁の女帝推古 作品社 1996年
石野博信編 古代の海の道 学生社 1996年
上田 篤編 五重塔はなぜ倒れないか 新潮社 1996年
森 公章 「白村江」以後 講談社 1998年
古田武彦 失われた日本 原書房 1998年
小石房子 天照らす持統 作品社 1999年
河村 望 日本書紀を読む 人間の科学社 1999年
鈴木 治 白村江 古代日本の敗戦と薬師寺の謎 学生社 1999年
古田武彦 「君が代」を深く考える 五月書房 2000年
寺沢薫 王権誕生 講談社 2000年
内倉武久 大宰府は日本の首都だった ミネルヴァ書房 2000年
李鍾恒 韓半島からきた倭国 新泉社 2000年
古田武彦 古代史の十字路 万葉批判 東洋書林 2001年
古田武彦 壬申大乱 東洋書林 2001年
金子修一 古代中国と皇帝祭祀 汲古選書 2001年
安引宏 原万葉 葬られた古代史 人文書院 2002年
関 裕二 大化改新 PHP文庫 2002年
関 裕二 藤原氏の正体 東京書籍 2002年
鈴木靖民編 倭国と東アジア 吉川弘文館 2002年
石野博信・ 森浩一他 三輪山の考古学 学生社 2003年
宮澤和穂 信濃の古代史 国書刊行会 2003年
関 裕二 神武東征の謎 PHP文庫 2003年
大山誠一 聖徳太子の真実 平凡社 2003年
鈴木大拙 禅学の道 再版 アートデイズ 2003年
沈 仁安 中国から見た日本の古代 ミネルヴァ書房 2003年
古田武彦 他 古代に真実を求めて 第7集 明石書店 2004年
白石太一郎 考古学と古代史の間 筑摩書房 2004年
鳥越憲三郎 中国正史 倭人・倭国伝全釈 中央公論社 2004年
川端俊一郎 法隆寺のものさし ミネルヴァ書房 2004年
新庄智恵子 謡曲のなか九州王朝 新泉社 2004年
小椋一葉 箸墓の歌 河出書房新社 2004年
小林恵子 本当は恐ろしい万葉集 祥伝社 2003年
関 裕一 海峡を往還する神々 PHP研究 2005年
吉村武彦 古代史の新展開 新人物往来社 2005年
西岡常一私の履歴書 日本経済新聞社 2005年
安本美典 大和朝廷の起源 勉誠出版 2005年
関 裕二 日本書紀 塗り替えられた古代史の謎 実業の日本社 2005年
直木孝次郎 神話と歴史 吉川弘文館 2006年
写真 1 白村江 (本文103ページ参照)
雪のちらつく朝、古戦場である韓国白村江を訪ねた(20
05年12月)。河口は干潮時であったため、港の岸壁にも
かかわらず、干上がって漁船が泥床に傾いていた。干満の潮
位差は4Mあるという。干満に伴う潮流も激しく、変化する
浅瀬など、地元の漁民でも行き来は楽ではなかろう。
663年8月、このあたりを、百済・倭国連合水軍4百艘
(唐史料 紀では総千艘)が上流の泗沘(しひ)城(あるい
は周留城)めざし数キロをさかのぼろうとし、唐・新羅連合
水軍170艘(紀史料)に挟撃されたて殲滅された。4度戦
って4度敗れ,煙は天を覆い、海水は一面に赤くなったという。
写真 2 唐代壁画「礼賓」 (本文116ページ参照
中国西安を旅行中、陝西博物館の国宝を研究員王建岐氏に
特別に見せてもらった(2006年7月)。高松塚古墳壁
画と同時代の本物である。氏の手になる模写もいただく。
則天武后の第2子、章懐太子墓(711年)内壁画(総
400平米)の重要な部分「礼賓」で、唐最盛期の鴻臚
寺官人と3人の賓客(東ローマ・日本または高句麗・中
国東北地方少数民族?)を描いたもの。
日本建国宣言の遣唐使(703年)粟田真人もこのよう
に接待されたと思われる。
[1] 『論衡』 後漢王充(おうじゅう;
の編。自然観、人文、歴史、政治思想などが論じられている。この部分は漢代「尚書大伝」伏勝編 の転載という。
[2] 「倭人・倭国伝全釈」P14 鳥越憲三郎 中央公論社 2004年
[3] 周の武王は殷の末裔である箕子を朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、理想的な社会が保たれ朝鮮の始祖と言われた。近代以降においては、韓国・北朝鮮ともに檀君朝鮮の檀君を始祖であるとしている。
[4] 「旧唐書」 唐(618-907)の290年間、北宋 欧陽脩・宋祁編(945) 倭国伝に並んで、「日本国伝」が初出する。官撰書 後晋の宰相となった劉陶(887〜946)の撰修とされている。
[5] 倭(わ、ゐ)=したがう、ちいさい、みにくい、醜面 日本では倭を「わ」とするのが通例で、倭奴も「わど」「わぬ」とするのが通例。「正しくはゐ」とする説もある。
[6] 「漢書」 前漢(前202‐8)の史書。後漢時代に班固(32‐93)が撰録「地理志」に倭のことが1行だけ記録されている。「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国をなし、歳時を以って来たり献見すという」
[7] 楽浪郡設置が前108年だから、漢代後半、紀元前1世紀の地誌。極東倭人の初出記事として、注釈なしに倭人と言っている。
[8]「後漢書」(ごかんじょ)後漢(25-220)の約200年間、5世紀南朝宋の范曄(はんよう)の編 倭国については東夷伝。魏志倭人伝を基にしている。
[9] 貢・朝貢と、献・朝献・献見は別。
[10] 倭(わ、ゐ=したがう)の字ではなく、委(ゐ=まかせる)の字を使っている。倭の卑字を避けた中国側の配慮と言われている。共通の「ゐ」が正しい読みとする説もある。「委」の字が再出する唯一の日本の文献は正倉院御物「聖徳太子筆とされる法華義疏(ほっけぎそ)「此是大委国上宮王私集非海彼本」の書き込みである。この御物の主人公は聖徳太子ではなく、多利思北孤だとする説(「法隆寺論争」家永三郎古田武彦
新泉社 1993年 )を筆者は採るが、更にこの「大委」は多利思北孤の国書にでてくる「大隋」と対となる対等外交用語であると指摘したい。また、「大委」は「俀」の字源と思われるが、いかがであろう。
[11] 「倭奴国」 「倭の奴国」ではなく「倭国の倭奴国」である、との説に従った。漢は倭国を認識しているが、倭奴を含む倭諸国を統一してはいない、との認識である。属国に金印を授けることはない。
[12]魏志倭人伝 「魏書」(通称『魏志』)の東夷伝倭人条 撰者は西晋の陳寿、西暦3世紀後半に書かれた。
[13] 後漢桓帝(147〜167)・霊帝(168〜189)の全期間大乱していたのであろうか、それなら「大乱の開始は147」だ。それとも漠然とその頃、というのであろうか、それなら「桓帝のある時期、例えば中ごろ157から大乱が開始した」となる。その前、70〜80年間が男王の統一時期であるから、統一開始の時期は、「147の70〜80年前、即ち67〜77」か「157の70〜80年前、即ち77〜87」である。
[14] 後漢書では「倭国王」だが、『翰苑』に引用されている後漢書には「倭面上国王師升」とあり、議論が残っている。次に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書に倭国王珍とあるまでない。
[15] 帯方郡から九州北岸まで海上1万里は現在の地図上で約800km、従って1里=約80m
[16] 邪馬台国を大和、その南の狗奴国を葛城王国に当てる説がある。「倭人・倭国伝全釈」P14 鳥越憲3郎 中央公論社 2004年 しかし、大和国と葛城王国では20kmと離れていない。九州から吉備・大和まで服属させたとする説の大和倭国が、喉もとの葛城王国を征服できないとは不合理な説だ。
[17]「邪馬壹国」とあるが魏志版本の誤りで、正しくは「邪馬臺国」である、とするのが定説となってきたので、引用以外は「邪馬台国」と記す。
[18] まちがいの遠因は、前出の徐福伝説にある、とする考察が多い。
[19] ここでは、通説を論ずるので「台」をつかう。「壹」は魏志の主要版本の字であるが、文献精査から「臺」が原本(亡失)の字との説が通説になっている。
[20] 「女王卑弥呼の『都する所』」上野武 NHK出版 2004年
この説の基となる説は、喜田貞吉(1917、橋本増吉(1932)らの「やまとへの里程情報と日程情報が原典がことなるものが誤混同されている」とし、久米雅雄は「九州女王国卑弥呼と畿内邪馬台国(卑弥呼の弟が佐治する)が並立していた。」とした。
[21] 「『魏志』は晋の陳寿の編纂に成れりと雖も、其の東夷伝は主として魏の魚豢(ぎょかん)の著作『魏略』に拠り、、」白鳥庫吉(1910)
魏略は魚豢(ぎょかん)編纂の史書。散逸し「翰苑(かんえん 唐代初期)巻3十蛮夷部」に「魏略に曰く云々」として引用している文がある。この翰苑の部分写本が太宰府天満宮所蔵(1917年発見)にある。(270頃とする 山尾幸久1986)
[22] 倭人・倭国伝全釈 p83 鳥越憲三郎 中央公論社「(碩田国(大分県)に)女人有り、速津媛という、一処の長なり」
景行紀 他にも、筑紫国八女郡の八女津媛・諸県(宮崎)の泉媛なども同様という
[23] 「倭国王」でない理由は他にも種々考えられる。女王だから、祭事王だから、初回遣使だったから、などなど。しかし、ここで注目したかったのは古代史学会で当然のごとく思われている「倭国統一=卑弥呼」の常識に疑問を呈したい点である。
[24] 「新邪馬台国論」久米雅雄 日本史論叢会 1986
「女王卑弥呼の『都する所』」上野武 NHK出版 2004年 参照
[25] 「王権誕生」寺沢薫 p332 2000年 講談社
[26] 「伊奘諾(いざなぎ)伊奘冉(いざなみ)の国生みのあと、伊奘諾(いざなぎ)は生める3柱、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミに、高天原・海原・夜の国を支配させる。スサノヲは亡き母の国に3りたいと泣いた。イザナキは大いに怒って、追放した。追放されたスサノヲは高天原に上って乱暴狼藉を働いたため、アマテラスは天石屋戸の中に篭ってしまった。スサノヲ命は改めて追放され、出雲国で大蛇を退治し、そこで結婚して宮を建てた。その子孫オホナムヂは、因幡の白兎を助けた後、過酷な試練を与えられたり、娘のスセリビメと様々な宝器を手に入れ、スサノヲから大国主神の称号を与えられた。その後、多くの子孫を残し、国造りを行って国土(列島)を完成させた。
アマテラスはこの国土は子のアメノオシホミミが治めるべき国であると宣言し、タカギ・アメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチを派遣し、コトシロヌシ・タケミナカタを力ずくで屈服させると、大国主神は自らを祭祀することを条件に葦原中国(列島)を高天原系に譲ることを承諾した。」日本書紀神代要約
[27] 「ただ僕(あ=大国主神)が住みか(神殿)は、天つ神の御子の天の日継知らしめす、、天の御単(みす)の如くして、底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり(ふとく)、高天原の氷木たかしりて(屋根の交叉する棟木をたかくして)治めたまはば、、僕(あ)は、、、隠(かく)りはべらむ(立派な神殿に祀ってくれるなら、自分は引っ込もう。)。また、、(子の)事代主神、、仕え奉(まつ)らば(祀らせれば)、僕(あ)が子等百八十神は違(たが)う神はあらじ(自分の子を祭祀者にすれば、一族も文句は言うまい)」古事記上
[28] 新唐書(11世紀編)は、8・9世紀日本の遣唐使(大和政権)の見解を吟味して、中国からみて正しいと判断したことを記している。
[29] 大和(やまと)の地名由来 古くは「山跡・八間登」など当て字した。九州王朝説では、邪馬台国は九州にあったとし、その由来としての「山門」など九州の地名を神武が東征時、大和地方に持ち込んだとする。別に、「やまと」は神武以前からの大和地方の固有の地名とする説(「日本の国号」坂田 隆 青弓社)があり、筆者はこれを採る。670年以降、「倭(やまと)」、日本書紀では「日本(やまと)」を当てた。天武時代に地域を広げて「大倭(やまと、おおやまと)」を当て、757年以降、「大和(やまと)」を当てた。
[30] この文章は、日本の遣唐使が説明した三種の正統性の説明の内、唐側が納得した部分を記したもので、真実というよりも、日本の主張である。「日本とは筑紫城にいた倭国王の子神武が東征した、だから、日本は倭国の正統な後継者だ」と言いたいのであろう。更に主張して、「神武以後は、宋書倭国伝の倭の五王(九州倭)も、隋書俀国伝の多利思北孤(九州倭)も、正当な倭国ではない。」と主張したであろう。唐側は、そこまで採らず、日本は倭国の分岐、別種だと認定した。
[31] 神武東征の実際の形は様々に想像されるが、そのどれであるかは特定できない。例えば、「本国で食いっぱぐれの一派が新天地を目指して成功し、本流であると自称した。」、あるいは、「本国が衰退したので、新天地への転進をはかって成功したが、その後、本国は盛り返した。あるいは、「本国にはその後、別の国が興ったが、中国から見て同じ倭人の国とみられ対外的には同じ「倭国」と呼ばれた」、など。九州分流が初めから「倭」を自称していたかどうかわからない。他者からは、九州倭と区別する別名で呼ばれていたであろう。その一例は「日本」である。九州倭からみて東方という意味である。
[32] 神武は、日向を出て筑紫の端に立ち寄り、安芸・吉備に数年滞在するが、戦った記述はない。既に倭国の勢力拠点があったものと思われる。傭兵された可能性もあろう。
[33] 三輪の考古学 河上邦彦 学生社 2003年 など。
[34]『王権誕生』寺沢薫 講談社、2000 『魏志倭人伝』旧版 山尾幸久 講談社現代新書、1972
[35] 日本では大化の詔の中に薄葬令(646)がある。その前文に魏の文帝の詔がある。初代の文帝(曹丕)は、黄初3年(222)に徹底した薄葬の方針を打ち出したという。卑弥呼の使者たちが洛陽に来たのは、まさしく曹操や文帝の薄葬主義のまっただなかであった可能性が高い。
[36] 韓国に残る歴史書には、12世紀にできた『三国史記』と13世紀にできた『三国遺事』、それから、『三国史記』のもとになった『旧三国史』の逸文がある。これより古い史書が残されていないが、百済の武寧王陵が発掘され、そこから出土した墓誌とこれら史書の内容が一致したことからその正しさが見直された。
[37] 高句麗(こうくり)の第19代の国王・広開土王(こうかいどおう)の功績(こうせき)を編年体(へんねんたいじ)に叙述(よじゆつ)した石碑で、広開土王(こうかいどおう)の息子の長寿王(ちようじゆおう)が、414年に建てたものだ。広開土王(こうかいどおうち)と長寿王(ようじゆおう)は高句麗(こうくり)の歴史800年のうちで、親子2代にわたる1世紀を極盛期に導いた人物なのだ。
[38] 宋書(〜479) 503年沈約によって完成
[39] 一面において、列島内統治の承認は半島側の国際的な反対を引き起こさないので、簡単に認めたのかもしれない。
[40] 常識的には、列島を統一して後、半島に遠征するという手順だが、歴史をみると、半島遠征と列島征服が、同時並行して進められたように見える。重要性・てごわさ・相手の出方などでそうなるのか。
[41] これだけを見ると「九州倭王讃・珍は九州を保持したまま東征し、大和を制して列島を統一し倭国王応神・仁徳天皇となった」と見られなくはない。または、「九州倭王讃・珍は応神・仁徳を派遣し大和を制して分国王とした」かもしれない。
[42] トップの率先指揮など、倭の五王の伝統を神功皇后や雄略が示している。
[43] 大王と称し(稲荷山鉄剣銘)、暦を新たにし(中国元嘉歴)、万葉集の冒頭歌を恋歌で飾り、半島に派兵(日本書紀)を行なう隆々たる英雄であった。父祖の地九州を失った失意の倭王とは到底考えられない。一方、倭王武も雄略の軍を新羅に派遣して連携しているとみられる。しかし、倭王武の上表文にみる高句麗に対する敵愾心にくらべ、雄略紀には高句麗王の日本に対する敬意の表現などあり、対高句麗でも温度差はある。
[44]宋書帝紀(四七八)では「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以って安東大将軍と為す。」とあるが、同年のより詳しい宋書倭国伝では「武、、倭国王と称す、、、順帝、、、詔して武を、、、、安東大将軍・倭王に除す(四七八)」とある。従って、宋書帝紀の「倭国王」は自称のことと解る。これ以外はすべて倭王武である。
[45]国造(くに の みやつこ)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種。後述するように、継体は
[46] 継体天皇は『日本書紀』が描く天皇のなかでは、全く異色の天皇である。まず、近江生まれの北陸育ち、ということになっていることからも他の天皇といちじるしく異なる。おまけに、『日本書紀(にほんしよき)』は継体(けいたい)を応神天皇五世孫と記している。万世一系の編纂方針に合わせた。
[47] 「大業4年(608)、文林郎裴清を遣わして倭国に使いす。、、、竹斯(ちくし)国に至り、また東して秦王国に至る。、、、また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆俀国に附庸す。」隋書俀国伝
[48] 「筑紫以東は皆倭国に附庸す(隋書608年条)」と比較し、「筑紫(以西)を支配していない 日本書紀527年条)」
[49]妻について。「使いの主の俀王は当時の日本の推古天皇」という通説があるが、推古天皇は女帝で妻はいない。
[50] 俀国では600年当時すでに施行済みということである。推古紀の官位十二階は603年制定、模倣か。または、600年以前、倭国が発令し、603年大和国がそれに従った。
[51] ここに「朝貢」の文字があるのは、変だ。天子自称とそぐわない。ここは、1年後に多利思北孤が、天子自称を撤回し、「去年の遣いは朝貢でした」と訂正したことを受けたものであろう、次節参照。
[52]、因みに新羅も536より年号開始。
[53]「倭の偽将軍」との記述が旧唐書にある。後述
[54] これは、かなりの文化レベルを要する作業で、年号改定ひとつとっても故事来歴・歴史素養・風水・漢字素養などを駆使しないとできない。
[55] 九州年号(522年、近畿の継続的年号大宝年号701年に先立つこと80年)・行政区分(近畿の郡に先立つ評制が禁止された701年)・まで、九州を中心に近畿を含む全国で使われた。
[56] 「大倭」 九州倭の別称として雄略5年条(461年)、斉明7年条(661年)に記載あり 坂田隆「日本の国号」197p
[57] 「大隋」 隋書俀国伝末尾 多利思北孤の言葉として
[58] 「大委」は唯一、正倉院御物「聖徳太子筆とされる法華義疏(ほっけぎしょ)にある書き込み「此是大委国上宮王私集非海彼本」に見られる字である。この御物の筆者は聖徳太子ではなく多利思北孤だとする説がある 家永三郎古田武彦「法隆寺論争」 新泉社 1993年
[59] 日本書紀では607年大唐に小野妹子を遣わす、が初出
[60] 隋書は倭国を俀国として俀国伝をたてて記述し、倭国に戻ったこの項は、俀国伝の中ではおかしいので、外に、倭国伝を立てずに記述した。
[61] 古代は輝いていた 157P 古田武彦 朝日新聞社
[62] 『旧唐書』 北宋欧陽脩・宋祁編(945)はもと『唐書』と称されていたが、後に北宋の欧陽脩・宋祁による『新唐書』が上梓されて、『旧唐書』と名づけられるようになった。編修は後晋の初代高祖の天福6年(941)から始められ、開運2年(945)までの僅か4年余りで完了した官撰書である。唐代からあまり離れていなかったので史料が多く、特に唐代前期に詳しく、本紀20巻、志30巻・列伝150巻で、合わせて200巻から成りゆうくり、後晋の宰相となった劉陶(887〜946)の撰修とされている。
[63] 邪馬一国への道標 P275 古田武彦
講談社 に詳しい。
[64] 631年は旧唐書倭国・新唐書日本伝の両方に遣使がみえる。この時期の倭国使と大和使の違いは「献ず」と「朝貢」に表れる。大和は小野妹子の遣唐使以来「朝貢」を求め、倭国は天子を自称した。ただし、後述するように、唐に敗れた傀儡倭国は朝貢している(670年)が、この時期は逆に天智は日本独立模索や防備工事など、唐に反抗している。
[65] 唐は大和(後の日本)の朝貢は公認していなかったが、踏み絵を踏ませようとしたのであろう。
[66] 例外は、敗戦後の唐書の泰山封事記事(670年 後出)だ。 次の新唐書東夷伝では、倭国条はなくなり、日本条だけになる。「倭」の字が出てくるのは3箇所だけである。倭国はなくなったのだ。「日本,古倭奴也、、、、或云日本乃小国、為倭(神武)所并(あわす)、故冒其號、、、、、惡倭名,更號日本、、、、、」新唐書東夷伝日本条
[67] 幼名真人。9歳にして仏門に入り(政争から隔離か)定恵と号す。12歳にして唐に渡る(温存策か)。21の歳(664)、帰国する(出番が来た?)が2ヶ月後に、暗殺された(倭国再興の反対派に?)。
[68] その例 「当摩皇子を新羅を討つ将軍とした。、、、難波から船出した。、、、そのとき従っていた妻の舎人姫王が明石で薨じた。、、、そして当摩皇子はそこから引き返し、ついに征討はやめになった。」 推古紀11年
[69] 「『白村江』以後」 森 公章 講談社選書メチエ P146 など。
[70] 九州王朝の歴史学 153頁 古田武彦 駸々堂 1991
[71] 日本の国号 坂田隆 青弓社 1993年
[72] 筑紫の君薩野間 囚われる前倭王であったとする推定もある。
[73] この倭国は唐の撤退によって天武の支配下に帰した倭国であり、さかのぼれば ↑ 日本を失った倭国、↑
郭務綜によって傀儡化され唐に朝貢した倭国↑ 唐代になって唐へは朝貢せず白村江の対唐新羅戦を主導した倭国↑ 隋煬帝の一喝にあって倭国に戻って隋に朝貢した多利思北孤の倭国↑ 俀国
[74] この文章は、日本の遣唐使が説明した3種の正統性の説明の内、唐側が納得した部分を記したもので、真実というよりも、日本書紀の主、日本の見解の1つである。「日本とは筑紫城にいた倭国王の子神武が東征した、だから、日本は倭国の正統な後継者だ」と言いたいのであろう。更に主張して、「神武以後は、宋書倭国伝の倭の五王(九州倭)も、隋書俀国伝の多利思北孤(九州倭)も、正当な倭国ではない。」と主張したであろう。唐側は、そこまで採らず、日本は倭国の分岐、別種だと認定した。
[75] 古田武彦
[76] プラトンの「饗宴」
[77]「そうあってほしい」願望が倭国像を創る傾向もあるが、あってはならないことだ。