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次著「高天原と日本の源流」高橋 通 原書房 2020年
引用抜粋 第一章
高天原と日本の源流 内外史書の証言から
橋 通
はじめに
古事記や日本書紀の神話には悠久の時の流れの中で、幾つもの地域の信仰や伝承が重ね合わされ、推敲されて共有された詩のような一面があります。高天原やアマテラスを特定の地や人に比定しようとするにはなじまない面です。
しかし他面において、神話末尾「天降り譚」の神代(かみよ)と人代(ひとよ)の狭間(はざま)には「どこまでが史実か?」の謎解きの楽しさがあります。ある王家が先祖を神に祀り上げようとすれば、どこまでを先祖の史実・実績として残して讃(たた)え、どこから先を神話伝承に合わせ込んで神に仕立てて権威付けするか、切り分けの原則を編者に指示するでしょう。この「編集の原則」を幾つかの神話部分から把握できれば、謎解きの鍵が開きます。
本書はそんな謎解きの筆者最新の成果、八つの仮説(目次)と内外史書によるその論証を提供するものです。多くの専門家が多くの推論を出している難問ですが、専門家でない筆者にも論証できたと思うのは、論理の細い道だけを愚直に辿(たど)った結果です。推論を極力排除した理詰めの記紀解釈で、細々としかし次々と見えてくる楽しさがあります。「イザナギの高天原はここ」(第一章)、「アマテラスの高天原は別」(第二章)で、そんな謎解きをお楽しみ下さい。
また、紀記は「倭国不記載」の方針で貫かれています。しかし、綺麗に切り分けられる史実などありません。「ここまでは書かないが(不記載)、ここまで書いてもこう読めるような書き方なら書いていないことにしよう(誤読誘導・不説明)」と「編集の原則」の指示があったようです。これらを掴(つか)むとすらすら読解できる、とは言い過ぎですが、これらが前著[注] と本著をまとめる力になった、と実感しています。
本著八つの仮説と論証は前著の論証をベースにしています。その都度引用する煩雑さを避ける為、前著の関係論証の要点を末尾に「参考」として示しました。本著の「仮説論証の基点と始点」として本著論証をご理解頂く一助となれば幸いです。
なお、日本書紀原文は朝日新聞社版、口語訳は岩波書店日本古典文学大系版、古事記原文は皇典講究所校定版、口語訳は講談社学術文庫次田真幸訳注版を参考にさせていただきました。
橋 通 連絡先:wakoku701@gmail.com
2019年 秋 ( 更新 2022.11)
目 次
はじめに 2
第一章、古事記の証言「イザナギの高天原はここだ」 5
第二章、内外史書の証言「アマテラスの高天原は別だ」 30
第三章、記紀の証言「天孫ニニギの南征(宮崎)と神武東征」 52
第四章、先代旧事本紀の証言「倭国王は天孫ホアカリ系」 72
第五章、応神・上宮王の出自は「倭国内ニニギ系王族」 100
第六章、推古紀の証言「上宮王と聖徳太子」 139
第七章、「倭」を「やまと」と読む由来 182
補 論、万葉集二番歌舒明・柿本人麻呂論など 229
参 考、論証の基点と始点・年表 257
以上
第一章 古事記の証言「イザナギの高天原はここだ」
[要旨]
古事記のある記述から「イザナギ・イザナミの島生み譚のオノゴロシマは宗像沖ノ島」が比定論証できる。そこから更に「イザナギ・イザナミの高天原は対馬」が導出できる。少なくも古事記はそう読めるように記している。
いかにも素人(しろうと)の妄想と思われそうだが、そこに至る考証は本居宣長始め諸先達が部分部分に残している。それら考証の断片の糸を繋(つな)ぎ、加え、海外史書との整合点を結び続けた結果、第二章「アマテラスの高天原は別」につながる望外・予想外に一貫した解読を得た。
●301 「イザナギ・イザナミの故地は対馬」(仮説)
伊奘諾尊・伊奘冉尊(以下イザナギ・イザナミ)の「島生み譚」は古事記・日本書紀(記紀)が語る日本の原点である。空想的起源神話として比定論義の対象外とするのが常識である。一方、海外史書に登場する日本は「倭国」と呼ばれ、その源流は北九州諸島の海族(うみぞく)であろう、とする推論は多かった。しかし史料も限られ、民俗学的考察や神話分類学的アプローチは有っても、歴史学の方面から記紀神話の世界に近づくことはほぼ不可能であった。
しかし、常識に捉われず、論証によって史学はどこまで遡(さかのぼ)れるか試みる価値はある。まず、海外史書から記紀神話を解きほぐそうと、一つの仮説から始める。
魏志倭人伝 [注1-1] には、対馬が次のように記されている。
魏志倭人伝
「(倭国女王卑弥呼に使いする魏の使者一行が)對馬國に至る、、、土地山險(けわ)しく、深林多し、道路は禽鹿の徑(けものみち)の如し、千餘戸、良田無く、海物を食して自活す、船に乗りて南北に市糴(交易)す」
対馬倭人の生業(せいぎょう)は「市糴(交易)」とある。手漕ぎ船で昔から列島の黒曜石(こくようせき)(鏃(やじり)・手鎌)や勾玉(まがたま)、新たに朝鮮半島から鉄などを仕入れ、それを海峡の南北に売って食料等を得ていたのであろう。この島の人々は弥生稲作で豊かになりつつある周辺を見て、「良田無い対馬からの移住」を決意し、まず関門海峡に来た可能性がある。そこを選んだ理由は「関門海峡には既に交易拠点(漕ぎ手交代要員駐在・船舶修理拠点)を持っていた、その拠点を農業転換の植民拠点にしようとした」と考えられる。彼等は交易用の鉄剣を持ち、それに興味を持つ顧客(戦闘集団)を知り、植民地開拓で情報戦や連携で優位に立てただろう。
これらの想像は「古事記・日本書紀神話の端々(はしばし)に示唆される史的状況」と整合する様に見え、次の仮説を誘導する。「対馬倭人は対馬から出て生業転換・農地獲得を図り、後世の倭国の王統天孫ホアカリ(兄)系と、大和王権王統天孫ニニギ(弟)系(神武ら)の共通の祖となった。彼ら子孫はその伝承を彼らのイザナギ・イザナミ神話に結び付けた」と仮説し、以下に検証する。
[注1-1] 魏志倭人伝 中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280年-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。「魏略」を原典としている、とされる。「魏略」
は魏末〜晋初(270年頃)に編纂された同時代的な史書だが、散逸して完全本は写本も残っていない。
●302 検証一 古事記の「島生み神話」三段目の「六島」
「神話は歴史論証になじまない」が常識だが、「古事記の島生み神話のほんの一部」に前節の仮説の検証に耐える記述がある。
古事記の「島生み神話」は三段からなる。以下の検証は三段目が中心である。
(1) 第一段は「淤能碁呂嶋(おのごろしま)(以下オノゴロシマ)の誕生」。 要約すると「天つ神がイザナギ・イザナミに島生みを命じたので、二神は沼矛(ぬぼこ)を用いて拠点となるオノゴロシマを創った」とある。いかにも「空想的神話」で比定地論議の対象外とするのが常識。
(2) 第二段は「大八島(おおやしま、列島)」の誕生。島生み神話の主要部で、列島各島と考えられている。通説では淡路島・四国(伊予二名島)・九州(筑紫島)・隠岐・壱岐・対馬・佐渡・本州(豊秋津島)に比定する。いかにも「現実に合わせた後知恵話」とされる。
(3) 第三段は、「イザナギ・イザナミが島生み巡りから還る時に六島を生んだ」とある。六島とは「吉備兒嶋・小豆島(あずきじま)・大島・女島(ひめしま)・知訶島(ちかのしま)・両児島(ふたごしま)」とある(原文は[注1‐2] に掲示)。これら六島の比定島は従来から種々提案されている。通説では六島バラバラに西日本各地の小島に比定されている([注1‐3] に示す)。
日本書紀にはこの古事記島生み譚三段目に相当する記述は無い。いかにも「ついで話」で真面目に検証されてこなかった。しかし、この六島探しが解読の糸口となる。
ここでイメージを持ってもらう為に、結論を図にして先に出す。●304で再掲する。
古事記島生み譚三段目の六島
[注1-2] 原文 古事記島生み神話第三段原文
「然る後、還り坐す時、
(1)吉備児島(きびのこじま)を生みき、亦の名を建日方別(たけひかたわけ)と謂う、
(2)次に小豆嶋(あずきじま)を生む、亦の名を大野手比賣(おほのでひめ)と謂う、
(3)次に大嶋(おほじま)を生む、亦の名を謂大多麻流別(おおたまるわけ)と謂う、
(4)次に女嶋(ひめしま)を生む、亦の名を天一根(あめひとつね)と謂う、
(5)次に知訶嶋(ちかのしま)を生む、亦の名を天之忍男(あまのおしを)と謂う、
(6)次に兩兒嶋(ふたごのしま)を生む、亦の名を天兩屋(あめのふたや)と謂う」
[注1-3] 「六島」の通説比定地はバラバラに以下とされてきた。
(1) 吉備児島=岡山県(吉備)南部の児島半島
(2) 小豆島(あずきじま)=香川県の小豆島(しょうどしま)
(3) 大島(おほしま)=山口県周防大島町
(4) 女島(ひめしま)=大分県姫島(ひめしま)
(5) 知訶島(ちかのしま)=五島列島宇久島
(6) 両児島(ふたごのしま)=五島列島小値賀島
●303 「六島」探し 十候補の比較検討
通説の「六島それぞれが各地バラバラに比定島がある」とするのは正しいか。島生み神話第三段には、「二神が大八島(おおやしま)を生んだあと『然る後(オノゴロシマに)還(かえ)ります時、、、次に、、、次に、、、』と生んだのが六島ある」とある。どこに還ったのだろう。還った先で今度は神々を生んでいるから「オノゴロシマに還る時」であろう。即ち「六島は次々と還る方向を示してまとまっている」「六島は大八島とオノゴロシマの間にある」と示唆されている。
そこで「まとまった六島」の条件に合う小島群を探してみる。範囲は五島列島から北九州沿岸〜瀬戸内海まで。二・三十の可能候補の中から検討候補を「五島列島」・「平戸」・「唐津」・「福岡」・「宗像」・「関門海峡北西」・「関門海峡南東」・「広島(安芸)」・「岡山沖」・「摂津難波沖」とした。当時の島が土砂などで地続きになり、現在島で無くなっていることも考慮する必要はあるが、取り敢えず現在の地図で探す。
これらの内「平戸」・「福岡」・「宗像」・「関門海峡南東」付近には島数が少なく、それらしい六島がない。「五島列島」・「広島」には島があり過ぎて「六島のみ生む」にはそぐわない。「唐津」の周りには七つほど島があるが、近くに「二並び」(六島を歌った応神歌、後述)の島がない。「岡山沖」・「摂津難波沖」は島数が多すぎたり少なすぎたり、「二並び」の島がなく候補とならない。これらの結果「関門海峡北西」のみが残る。その様な提案も既にあるが、検証は十分でない[注1-4]。筆者はそれらを参考にして、次節でこれを精査する。
[注1-4] 「六島は関門海峡北西」比定説 三つを挙げる。
@「山口県風土誌」全13巻 明治37年、「蓋井島」の項に「古事記六島の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」とある。根拠は先行考証(本居宣長考証・「長門国志」など)を挙げているが、視点が神功皇后に偏り本論にとって充分でない。
A西井健一郎説 「私考・彦島物語 I〜II」古田史学会報No71号(2005)〜」。説の中心は「イザナギ〜神武までの活躍の中心地は下関市彦島である」とするもので、その他広範囲の考察を上記会報に多数回発表している。「筑紫の日向の小戸」の解釈に「彦島/小戸も筑紫の一部」とするのは卓見だが、「彦島=日向」とするのは無理がある。「彦島は日向の一部」が限度であろう(次章参照)。
B 前原浩二説 「http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-1-4.pdf」に記されている。前原浩二説は西井健一郎説を発展させて、「島生み第二段大八島、第三段六島の比定を具体的に提案している。第二段の「淡路島」「伊予二名嶋」及び「第三段の六島」の比定は参考になった。しかし、全体としては根拠・論証の無い仮説の積み上げが多く、説得力は必ずしも充分でない。
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●304 六島の比定候補「関門海峡北西の島々」の検証
「古事記の六島」と比定島候補「関門海峡北西の六島、次図 @〜E」を対応させて検討する。原文にある「亦の名」は貴重なヒントとなる。
(1) 「吉備児島(きびのこじま)、亦の名建日方別(たけひかたわけ)」の候補: @現在名「竹の子島(たけのこじま)」(下関彦島(ひこしま)の北西隣)、現在名の由来は「亦の名」に由来する「建児島(たけのこじま)」と考えられる。
(2) 次「小豆島(あずきじま)」の候補: A現在名「六連島(むつれじま、島形があずき形)」(東)と「馬島(うましま)」(西)とが並んでいる。((1)の北西隣)。応神紀の歌に「あずきしま、いやふたならび」と歌われ二つで一つと数える。「二並び」については後述する。
(3) 次「大島(おほじま)、亦の名大多麻流別(おおたまるわけ)」の候補: B現在名「藍島(あいのしま)」((2)の北西隣)、「仲哀紀」にある「阿閉(あへ)島」をこれに比定する説がある(中世〜江戸期考証、(6)の文献に同じ)。古代に「おほ〜」から「あへ〜」に変化し、それ以後現在名「あい〜」につながった可能性がある。
(4) 次「女島(ひめしま)」の候補: C現在名「女島(めしま)」((3)の北西隣)」、同名だから否定のしようがない。
(5) 次「知訶島(ちかのしま)、亦の名天之忍男(あめのおしお)」の候補: D現在名「男島(おしま)」(女島(4)の隣)、「亦の名」の「男」に由来すると言える。(4)と「二並び」でもある。
(6) 次「両児島(ふたごしま)」の候補: E現在名「蓋井島(ふたおいしま)」((1)の北西)、二つの峰をもち、比定地候補としてふさわしい。明治期以前にこの島が「古事記六島生み神話の両児島だ」という考証があった [注1-5] 。
古事記島生み譚三段目の六島 比定
以上、古事記の「六島」と「関門海峡北西の島々」は全体として数・地形・順序共に整合し、すべての島名が現在名と整合する点を持つ。これほどの整合性は先に挙げた他候補には見られず、「最有力な比定島候補」とするに足るレベルと考える。
ただし、整合性が高すぎる時に注意すべきは、
(1) 「島生み三段目伝承には各地方版があり、身近な島名が一部取り込まれ(「亦の名」)、変化した」という可能性が無いとは言えない。しかし、異説(地方版)がいくつかあれば日本書紀は一書群として記するが、この三段目自体を記していない。古事記特有の伝承か。
(2)「三段目が関門海峡域独自の地方色豊かな神話伝承」の可能性。 (1)の一例であるが「稗田の阿礼(下関市稗田(ひえだ)地区出身?)の伝承では(古くから地元の)関門海峡周辺の島名が当てられていた」という可能性。日本書紀は古事記の地方性が高い部分を「一書扱い」している節(ふし)があり、この三段目は地方性が高過ぎるとして不採用としたのかもしれない。
(3)「後年、古事記に合わせて(迎合して)現地島名が改名された」という可能性。ただ、最後の「両児島」は候補も二つの峰を持ち、「ただ古事記に合わせて改名した」以上の整合性を持つ。
など様々な可能性があるが、後の検討課題としたい。
[注1-5] 蓋井島 前注 「山口県風土誌」全13巻 明治37年、9巻「蓋井島」の項に「古事記の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」)とある。
●305 検証二 応神・仁徳の歌と関門海峡
前節は「三段目の六島名」と「現在島名」の類似性・数・順などから「最有力な比定島候補」としたが、更に検証する。前節の「関門海峡北西六島」を詠んだと思われる歌が応神紀と仁徳記にある。
応神紀二十二年条
「天皇、難波大隅宮に居られる時、、、吉備の父母に会いに行く妃(兄媛(あにひめ))を淡路の海人八十を水手(かこ)として送らせて、、、歌よみして曰はく、あはぢしま いやふたならび あずきしま いやふたならび よろしきしましま、、、(天皇)淡路島に狩したまふ、この嶋は海に横たわりて、難波の西の方に在り、、、淡路よりめぐりて、吉備にいでまして、小豆嶋(あずきしま)に遊びたまふ」
仁徳記
「淡道(あはぢ)嶋を見むと欲(おも)ふと曰(のたま)いて幸行(みゆき)の時、淡道嶋に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く『おしてるや(押照、難波にかかる枕詞とされる)、なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば、あはしま、おのごろしま、あじまさのしまもみゆ、さきつしまみゆ』乃(すなわ)ち其の嶋より伝いて、吉備の国に幸行(みゆき)す」
これらの歌に「難波・淡道島・あずきしま・難波の西の淡路島・吉備」などが出てくるから、通説では瀬戸内海の諸島(摂津難波・淡路島・小豆島(しょうどしま))を詠んだと解釈されている。しかし、この通説には幾つもの不整合がある。
(1) 応神天皇は記紀では仲哀・神功の皇子とされ、九州で生まれ九州豊国難波大隅宮で崩じた(応神紀、
[注1-6] )。新羅征戦で大活躍している(広開土王碑)。応神の作歌場所は九州である。瀬戸内海ではない。
(2) 仁徳は応神の一族として北九州で生まれ、新羅征戦後に河内東征するまで九州の「難波高津宮」に居た(仁徳紀、[注1-7])。それは豊国(企救(きく)半島を含む)である可能性が高い、と検証した。これらの歌は応神崩御直後であり、この豊国難波宮の頃と考えられる。仁徳のこの作歌場所は九州である。瀬戸内海ではない。
(3) 応神歌では「あずきしま いやふたならび」と「あはぢしま いやふたならび」は対であるから「それぞれがふたならび」である。「あはぢしまとあずきしまがふたならび」の意味ではない。応神と兄媛(あにひめ)妃、男女間の仲の良い二並びは世に多い、の意で、微笑ましい例である。「関西の淡路島と小豆島(しょうどしま)が並んでいる様(さま)」とする通説は誤読である。小豆島の周りには多くの小島があってそれらと「ふたならび」とも言い難く、淡路島も大き過ぎて「ふたならび」とは言い難い。要するに、応神歌の「ふたならび」は関門海峡の比定候補島(六連島(むつれじま)と隣の馬島))の方がよく整合する。
(4) 応神紀・仁徳記の歌の地名・方位は確かに「摂津難波・瀬戸内海淡路島・小豆島(しょうどしま)」と良く合う、と前述した。従来からその様に読まれている。しかし「実はこれら瀬戸内海東部の地名は仁徳が九州から河内東征後に関門海峡域の地名・方位を瀬戸内海東部に地名移植したものだ」とすれば、良く合って当然である(仮説、後に論証)。しかし、これらの歌との整合性は瀬戸内海東部より関門海峡域の方がより高い((3))。そのことが地名移植説の根拠の一つとなっている。ただし、「地名移植が仁徳によるだけ」とは言えない。「摂津の難波」は「神武東征時の地名移植」の可能性もある。また、地名移植は遠方の場合、相当期間両方で使われたであろうから(並用)、その時期は断定的に考えることは難しい。それ故、地名移植が仁徳以前の可能性もあるが、少なくも仁徳時代に関門海峡で使われた島名である、とすることはできる。
(5) 「難波の西にある淡路島がふたならび」(応神紀)とある。その「難波」の地名は時代と共に数か所に増える。しかし「ふたならび」との関係は限られている。「(地名移植後の)摂津難波の西の淡路島と小豆島をふたならび」と見るのは無理があった((3))。「博多湾内の難波津(仏像投棄譚に出てくる)」には能古島一つしかない。「海流が速いから難波だ」とする候補に「玄界灘説(博多沖)」「周防灘説(豊国沿い)」などあるが、「適当な二並びの島がない」ので整合しない。その結果、応神の歌「難波の西の二並びのあずきしま」は「古事記の六島、現六連島(むつれじま)/馬島」しかない。比定として良いだろう。「その二並びの島を西に見る難波は関門海峡」と比定できる(神武紀の東征出発地「浪速(なみはや)=関門海峡」と整合する)。
(6) 応神紀の歌はその先行文によれば、難波宮を船出して父母の居る吉備に会いに行く妃(兄媛)を見送る歌である。その船に水手(かこ)八十人を増強しているから、海流難所(難波)を越えさせて吉備に送る支援である。「淡路島・吉備・小豆嶋は難波(関門海峡)の西」であるから、「難波宮
→ 難波 → 吉備」の順(西向き)であることが解る。前項から、この歌の「難波宮は関門海峡東側」と比定できる。企救半島周防灘側であろう。
上記応神紀の検証から、仁徳記の検証を更に先に進めることができる。
(7) 古事記六島譚をカットしている日本書紀が、応神紀に「ふたならび」と記し、古事記の六島の一部「六連島と馬島(二並び)」と整合して居るから、古事記六島譚は紀によって裏書き(保証)されている。それは、仁徳記の歌が応神紀の歌と整合すること保証している。
(8) 「オノゴロシマの島生み譚」と「島生み譚の六島譚」と「六島を歌った仁徳歌のオノゴロシマ」はいずれも同一文献古事記であるから、同一の島々として良いだろう。それらは紀によっても保証されていると見て良い。
以上から、「古事記島生み譚三段の六島は関門海峡北西の六島に比定できる。史実か否かは措くとして、古事記はそう読める記述をしている。日本書紀もそれを肯定している」としてよい。この比定が重要なのは、次節以降の「同じ記紀内の連鎖的な比定論の基点」となることである。
[注1-6] 応神の難波大隅宮 河内に応神陵があるから応神が河内で崩御(記崩年394年)と考えられ易いが、応神陵は仁徳東征(405年以降、九州から河内へ、仁徳紀)後の築造(改葬)と考えられる。「難波」には摂津難波説(通説)・博多難波津(九州王朝説)・豊国説があるが、応神紀の難波は大隅宮のある難波であるから、次の資料と同じ難波であろう。「大連に勅して云う、難波の大隅嶋と媛嶋の松原に牛を放ち、名を後に残す」安閑紀二年(535年)。この「媛嶋」は豊国姫島(大分市)であると言われ、比売語曽社で有名である。比売碁曽社は姫島の前は難波にあった、とされる。垂仁紀に「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、、、海を越えて日本国にいたる、探し求めた童女(おとめ)は難波に至り比売語曽(ひめごそ)社の神となった、また豊国の国前郡に入って比売語曽社の神となった」とある。応神ゆかりの難波大隅宮は豊国媛嶋と関係深い。
更に応神五世孫とされる継体の継嗣安閑天皇は豊国に多くの屯倉(筑紫君磐井遺領)を得て、豊国勾金橋(まがりのかなはし)に遷都した(安閑紀534年)。その屯倉の一つ難波屯倉を妃宅媛(やかひめ)に与えたという(同)。与えたのは宮の近くの自領であろうから難波屯倉は豊国(豊前)と推定される。応神の難波は企救半島周防灘側と考えられる [注1-7] 。詳細は前著第六章参照。
[注1-7] 仁徳の難波高津宮 九州を出ていない応神天皇が難波大隅宮で崩じ、その直後の仁徳即位元年条の難波高津宮は摂津難波でなく、豊国難波である。仁徳記の歌に「なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば」とある。難波の岬が自領を国見するに適していることは、企救半島の東西に自領があったからであろう。西側に吉備の国や諸島があり、東側(周防灘側)に難波の宮があった、とするのが妥当な解釈であろう。 仁徳は祖先の伝承「島生み神話」も「神武東征の吉備と難波」も知った上で関門海峡を幸行しているはずだ。「淡道嶋」「なにはのさき」「あはしま」「おのごろしま」「吉備」が近くに視認できることに納得し、満足している(仁徳記の歌、上掲)。
●306 検証三 「伊予之二名(ふたな)島」は下関の「彦島」
仁徳記の歌の「淡道嶋」が古くは関門海峡北西のある島(古淡路島)を指したことを検証した。この島は「古事記島生み譚二段、大八島(おおやしま)生みの最初の島」である。それが瀬戸内海でなく関門海峡西であるなら、その次に島生みされた「伊予之二名島(いよのふたなじま)」も当初は四国でなく、関門海峡付近にあった島を指したのであろうか、これを検証する。どこにあったか、そのヒントは「土左國風土記逸文」にある。
土左國風土記逸文 釋日本紀 卷第十
「土左の國の風土記に曰く、、、玉嶋(たましま)、ある説に曰へらく、神功皇后、、、嶋に降りて、、、一つの白い石を得たまひき、詔(みことの)りたまひしく、これは海神の賜へる白真珠なり、、、故、嶋の名とす、、、」
「神功皇后が珠を得たのでその島の名を玉嶋とした」という吉祥譚である。その玉嶋が土左の國にあるから「土左國風土記」に記されているのである。では、「玉嶋を含む土左國」はどこにあるか。別の記事からそれが解る。
仲哀紀二年条
「皇后(神功)豊浦(とゆら)津に泊まりたまふ、この日皇后如意珠を海中に得たまふ、九月宮室を穴門(あなと)に興して居ます、これを穴門豊浦宮と謂う」
神功皇后は穴門豊浦に泊まっている時に珠を得た、とある。吉祥譚であるから、二度重ねてあれば更に大吉祥として大書されるはずだが、それはない。ただ一度の吉祥であるから上記二つの記事は同一事件である。従って、玉島は土左國にあり、そこに豊浦があり、豊浦は穴門にある。では「穴門」はどこか。穴門(あなと)は長門(ながと)の古名とされ、長門は関門海峡本州側である。従って「穴門豊浦の近くの玉嶋を含む土左國」も関門海峡本州側である。その土左國は「古事記島生み神話、大八嶋(おほやしま)生み」では伊予國・讃岐國・粟國と共に「伊予二名島」の四面を成していた( [注1-8] )。従って「伊予二名島も関門海峡本州側の島」である。土左國のような國を、それが例え村のような古代の小国家だとしても、4つも収容できる「関門海峡本州側の島」とは現「彦島」しかない(「穴門の引嶋(ひこしま)」(仲哀紀)も参考になる[注1-9] )。彦島は本州最西端、島のように見えないが本州から地割れしたように細長い小海峡「小門(おど)海峡」を挟んだ下関の向かい側である。長門に近い「伊予國〜土左國があった伊予二名島」は彦島と比定するのが妥当である( [注1-9] 、西井健一郎説
[注1-10])。
これは、これらの国名・地名(土左國・粟國・伊予國・讃岐國)が仲哀・神功・応神・仁徳時代に関門海峡付近として繰り返し記載されているのだから、その後に彦島から四国に地名移植された可能性を示唆している。その時期は恐らく大宝元年(701年)の令制国(りょうせいこく)制定時点か、それ以前の「倭国令制国(?)」時点の可能性も有り不詳だ。風土記も「元明天皇の風土記編纂令(713年)」によるが、「倭国風土記(?)」を経た可能性も有り不詳だ。地名移植は遠方に移植された場合、相当期間並存することが多く、移植時期が特定し難い。また、段階的である場合も多く単純とは限らない。例えば「吉備」については「関門海峡吉備
(地名)→ 神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) →吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など複雑な多段階が想像される場合もある[注1-11] 。
以上から、「伊予二名島は現彦島(関門海峡)」と比定できる。それは関門海峡「六島」の付け根に当たる場所である。この比定は既に述べた「(古)淡路島・(古)吉備は関門海峡周辺」の傍証となり、以下の「(古)粟國・粟門(あわと)」がどこか、第五・六章の「(古)伊予温泉」はどこか、など多くの検証に役立つ。
[注1-8] 伊予二名島 古事記島生み譚第二段では、まず「淡路之穂之狭別島」次に「伊予之二名島、この島は身一つにして面(おも)四つあり、面ごとに名あり、かれ、伊予の国を愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ、粟国を大宜都比売(おおげつひめ)と謂ひ、土左国を建依別(たけよりわけ)と謂ふ。」とある。日本書紀ではこれら四つの国の事は触れられていない。
[注1-9] 彦島 彦島とはどんな島か。日本書紀に一か所「穴門の引嶋(ひこしま)」(仲哀紀、読みは岩波版による)と出てくる。大きさは2km四方ほど。下関とは環濠のような狭く曲がりくねったS字を裏返したような形の海峡(幅50〜300m、長さ4km程)で隔てられている。関門海峡を大瀬戸、この海峡は小瀬戸(又は小門(おど)・小戸(おど))とも称される。海峡の片方の口(逆S字の南方)は関門海峡の中程(巌流島がある)に通じ、幅30m程で狭く潮流は速い(上瀬、現在彦島水門がある)、他方の口は日本海の響灘(ひびきなだ)に面して幅300m程で広く潮流は遅い(下瀬、現在彦島大橋がある)。中程(中瀬)に現在小戸公園がある。彦島水門はパナマ運河形式で漁船程度は通れるが、潮流は現在は遮られ、海峡は港として使われている。下関側は埋め立てがあり、当時の岸がどの辺か不詳。
[注1-10] 西井健一郎説 「伊予二名島(いよふたなじま)は現彦島」とする価値ある一説 西井健一郎「私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索」古田史学会報No71号(2005)
[注1-11] 地名・国名移植 移植の動機は幾つもある。@ある土地の一族が集団移住した場合、例えば仁徳時代の九州飛鳥の漢人が難波飛鳥(近つあすか)、奈良(遠つあすか)に移住した例、蘇我氏が肥前飛鳥を大和飛鳥に地名移植した例。Aある土地の氏族が地方の領主に任命派遣された場合、例えば「崇神朝の吉備津彦
→ 派遣先で吉備王国 → 吉備国。B 九州古代国名の列島拡散、例えば多利思北孤の律令制、「軍尼(くに、国造か)120有り」(隋書)、国があれば国名の命名がある。C倭国の令制国(豊前・豊後など?)。E日本国の令制国(702年大宝律令?〜明治まで殆ど不変)。また、多段階の移植経緯もある。例、例えば「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→
神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) → 吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など。この様に、国名移植の前に地名移植が有り得、地名移植があったとしても、元の地名が遺存されて複数の同名が並存する場合もあるなど複雑だ(複数の飛鳥、複数の難波など)。ここでは表記の不統一は原典に従った。地文と歌の万葉仮名の違いなど。「淡道嶋」=「淡道之穂之狭別嶋」、「阿波志摩(万葉仮名、あはしま)」=「淡嶋」、「淤能碁呂志摩(万葉仮名、おのごろしま)」=「淤能碁呂嶋」とした。
●307 「オノゴロシマ」は「宗像沖ノ島」
「オノゴロシマ」比定説は幾つかある。通説の一つは「岡山県淡路島と紀伊半島の間の海峡に浮かぶ島」説、九州王朝説では「能古島(のこのしま、博多湾内)」説(古田武彦説)、「小呂島(おろのしま、沖ノ島の南隣)」説などがある。「所詮神話」「空想上の島」と真面目に検討されていない。それが常識である。
しかし、「島生み譚三段目」が比定でき、「二段目の幾つか」が比定できた今、「一段目のオノコロジマ」が比定できる可能性がでて来た。既に指摘したように、第三段で「(オノゴロシマへ)還ります時」に関門海峡の一部を成す「伊予二名島(彦島)」、それに隣接する「吉備児嶋(現在名「竹の子島」)」から始まり、「次」「次」と順次北西に向かって六島創った、とあるから、オノゴロシマは六島の更に北西にある。そして、そのオノゴロシマは「関門海峡近くの(古)淡道島」に居る仁徳天皇が「オノゴロシマみゆ」と言っている島である(前々節)。六島の北西のその先にあって、見える範囲の島は「宗像沖ノ島」しかない(70km)。「天気がよほど良ければ関門海峡から沖ノ島が見える」とは地元の人の多くが証言している。以遠の対馬・釜山は波間に霞んで見えない(150km〜)。他の比定候補「能古島」「小呂島」は途中の島や山で遮られて関門海峡近くの仁徳天皇からは見えない。これらは「古事記のオノゴロシマ比定候補」からは除外するしかない。
以上、「六島」の比定から「オノゴロシマは宗像沖ノ島」の比定が導出される。
また、「オノゴロシマ」は絶海の孤島でなければ「初めての島生み神話の舞台(起源説話)」とはならないだろう。沖ノ島から周りの島々へは60km〜70kmあり「天気がよほど良くなければ隣の島も見えない絶海の孤島」である。だから「島生みの舞台」という発想につながる。「能古島(博多湾内)」には絶海の孤島というイメージが全くない。
「オノゴロシマ」は神聖な島とされたであろう。沖ノ島は今でも神聖な島である。宗像大社の沖津宮が祀られ、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点もの宝物が見つかり、そのうち八万点が国宝に指定されている。「倭国王家歴代天王の墓」という説も納得性があるような神聖な島である。
沖ノ島が世界遺産として登録され、多くの解説がなされるが、「大和朝廷が古代から祭祀した」とする解釈も少なくない。「これだけの宝物を奉納できるのは大和朝廷しかないだろう」という想像からだ。しかし、記紀は沖ノ島を含む宗像神社を「宗像三女神はスサノヲの子で筑紫の胸肩君等が祭る神」(紀神代上六段本文)として他人事扱いだ。それなら「宗像の属する倭国の一部」「宝物は倭国の奉納」「祭祀は倭国内ニニギ系祭事司」と考えるのが妥当だ(第五章)。天武が宗像氏から妃を迎えるなど倭国/宗像氏と大和王権/倭国内ニニギ系祭事司との関係は断絶していない(第五章)。にもかかわらず沖ノ島の祭事に倭国滅亡以前の大和王権の関与が希薄なのは沖ノ島が倭国王家の墓所だった可能性がある。墳墓と違って開放型墓式の為、秘所とされたのではないだろうか。古墳時代・弥生時代を更に遡る暦年の秘宝が連続して存在することは、途中の盗掘が無かったこと(考古学)、管理が一貫して続き管理者交代が無かったことを示す。卑弥呼の倭国統一前後には倭国大乱や混乱期があった(魏志倭人伝)。その間も一貫して管理し得たのは、一帯の海域を掌(たなごころ)の様に支配した海族(うみぞく)イザナギを祖とし、後に倭国王となって一貫して管理し続けた倭国王家の存在と継続性を想像させる。
本章のここまでの結論として「記紀(古事記島生み譚三段・応神紀・仁徳記の歌など)に拠る限り、オノゴロシマは宗像沖ノ島」と比定できる。
●308 イザナギの「高天原」は「対馬」 (検証)
次に注目するのはイザナギの出発地「高天原」である。「高天原
→ オノゴロジマ → 島生み巡り」から「還ります時」の起点が「関門海峡」であるから、「沖ノ島(オノゴロジマ)」を経由地とするその先にある出発点「高天原」は「対馬」
しかない(前図参照)。釜山の可能性は「対馬サルタヒコとの関係」から無い (次章、[注1-12])。
その対馬は魏志倭人伝に「良田なく」とあり、稲作普及に取り残された地である。ここから、「島生み」の意味は「イザナギ・イザナミは(良田の無い)対馬(高天原)から沖ノ島(オノゴロジマ)で植民祈願(島生み祈願)の祭事をして植民基点の彦島(小戸)に来た」と解釈できる。本居宣長が「島生み」を「洲生み・国生み(植民地獲得)」と神話を史的解釈をしたことはよく知られている。交易を業とする海原(うみはら)族が交易中継基地としてしばしば来、特に瀬戸内海への交易要衝として水手(かこ)の交代要員常駐地・舟の補修基地としたであろう交易拠点関門海峡へ、今度は農業への転換を図る為に入植地を得る基地にしたのであろう。「船に乗りて南北に市糴(してき、交易)する対馬國倭人」(魏志倭人伝)の農業への転換、及びその後に続く「スサノヲの列島国造り」の第一歩と理解される。
従来からこの比定地探しは「神話だから」と真面目にされてこなかったことと、「アマテラスの高天原には豊かな田がある」とされるから「良田の無い対馬」と整合しないので結論めいた話にならなかった。「イザナギの高天原とアマテラスの高天原は別」「原初の『天』を加えれば三つ」の解釈を認めて初めて、上述の比定論が納得性を持つ(アマテラスの高天原については次章)。更にイザナギと対馬国神サルタヒコの祖が主従だったと考えられることも傍証として次章で検証する[注1-12] 。
以上、「六島」の比定から「イザナギの高天原は対馬」の比定が導き出された。
[注1-12] 他の可能性 「高天原」の比定候補として沖ノ島を経由地とする関門海峡の「対岸」として「釜山」付近も地理的には可能性がゼロではない。しかし、次章に登場するサルタヒコ船団の拠点が対馬であること、対馬国神サルタヒコとニニギの関係が「仕え奉(まつ)る」と主従関係であること、ニニギの祖イザナギの関門海峡への渡海にサルタヒコの祖が関係した可能性が高いこと、ニニギの祖アマテラスが選んだ「もう一つの高天原」が釜山でないこと(第二章)、などとの整合性を考慮すると、イザナギの高天原が対馬以外である可能性、特に釜山である可能性は無い。それは同時に「イザナギ〜アマテラス一族は海照らす神を祀る海族であること」、「新羅系・高句麗系である可能性は無い」ことを証している。「イザナギの高天原はアマテラスの高天原と違う」については第二章で検証する。
●309 「イザナギの小戸」は「彦島」 (比定検証)
イザナギ・イザナミは「高天原」から「オノゴロシマ」に降り、島生み(巡り)をした。そして一旦(オノゴロジマに)帰って神生みをしたが、火の神を生んだイザナミが火傷で死んだ。イザナギは「小戸」で禊(みそぎ)をして三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)を生んで「淡海の多賀に坐(い)ます」(記)で終わっている。
記即ち、記紀による系譜は、
イザナギ ━→
アマテラス
┗━→ ツクヨミ
┗━→ スサノヲ
また、イザナギの禊(みそぎ)の地について次のようにある。
古事記
「(イザナギ)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまいき」
紀 神代五段一書六
「(イザナギ)、筑紫の日向の小戸(おど)の橘の檍原(あはきはら)に至りて、、、上瀬(かみつせ、[注1-9] 参照)はこれはなはだ疾(はや)し、下瀬(しもつせ)はこれはなはだ弱(ぬる)しとのたまいて、すなはち中瀬(なかつせ)に濯(すす)ぎたまふ」
紀 神代五段一書十
「(イザナギ)、粟門(あわと)及び速吸名門(はやすいなと)を見る、然るにこの二門、潮既にはなはだ急(はや)し、故に橘の小門(おど)に還向(かえ)りたまいて拂(はら)い濯(すす)ぎたまふ」
とある。ここに「小門(おど)」「小戸(おど)」「粟門(あはと)」「速吸名門(はやすいなと)」「潮」「流れ」「瀬」「二門」「筑紫」がある。「筑紫」があるから九州、「二門」とあるから複数の海峡と考えられる。その内「速吸名門」は神武東征譚に「南九州から『速吸門』を経て吉備で軍船を揃えた」(神武紀)とあるから「速吸名門」(紀)は関門海峡であろう(「吉備」は関門海峡西近く(仁徳記、前述))。「粟門(あわと)」も「潮」とあるから海峡である。「二門」とあるから別の海峡である。「関門海峡近くのもう一つの海峡」は「現小門(おど)海峡」しかない。これは下関と彦島(伊予二名島)とを隔つ4km程の川の様な海峡、関門海峡側に狭い口(〜50m、流れが速い)と日本海側に広い口(〜300m、流れが弱い)を持つ。上掲の記・紀の記述「疾(はや)し、弱(ぬる)し」に一致する。この海峡が「小戸」であり、粟門は小戸の粟國(伊予二名嶋=彦島)の関門海峡側であり(関門海峡と同様潮が急だ)、中瀬が小門(おど)と考えられる。
結論として「イザナギの小戸」は海峡としては現「下関小門(おど)海峡」に、地名としては「彦島小戸(現小戸(おど)公園など)」に比定できる(前出西井健一郎説[注1-3]を基に検証)。
以上から、古事記の島生み譚を史的解釈すれば「イザナギは対馬(高天原)を出て、沖ノ島(オノゴロジマ)で国生み祈願(「島生み」の本居宣長解釈)をした後、関門海峡を拠点として確保した。沖ノ島(オノゴロジマ)に還り、再び関門海峡彦島の小戸に戻って祭事(禊)をした」と比定することができる。前二節と合わせ、イザナギを祖とする大和王権が関門海峡に拘(こだわ)る理由の第一である。
●310 「小戸彦島説の否定論」への反論
「イザナギの小戸は彦島にある」と検証した。だが、紀にはイザナギの小戸について「筑紫の日向の小戸(おど)」、記では「竺紫の日向の小門(おど)」と記述されている(前節)。現在の感覚では「彦島の小戸は本州(下関市)」だから「筑紫の日向の小戸」は「彦島ではない」と疑問や否定論があった。
これだけなら簡単に反論できる。「大きな二つの島(本州島と筑紫島)の間に位置する小島(彦島)の帰属問題の答えは二つある」と反論すればよい。現代の認識は「彦島は本州の一部」であるが、古代は「彦島は筑紫の一部」と認識されていた可能性がある。しかし、やや強引な解釈であり、別の解釈の方が有意性がある。のである。地勢的には前者が正しいが、何らかの理由(政事・経済・軍事・祭事)で後者とされる例がある。仲哀紀に「関門海峡東南側の山口から宇佐までを『東の門』、日本海側を『西の門』と呼ぶ」という例がそれだ。「海峡両岸を同一領域と観る例であるが、海峡を要衝と見る海族(うみぞく)らしい解釈である。て、出口側と入り口側を別領域と観る例である([注1-13])。「彦島の対岸が日向(筑紫)」であれば「筑紫の日向の(一部である彦島の)小戸」は有り得る。ここでは例がある後者を取り、検証を続ける。
しかし、否定論はこれだけではない。「日向」の比定地は通説では「九州宮崎〜高千穂峰」、九州王朝説では「博多周辺」である。九州王朝説は「日向は博多」と比定し、「日向の小戸=彦島説」を論外としている。その「小戸比定論」とは、
@「倭奴国は博多湾岸(金印出土、確かな比定基点)」
A「だから『倭国の倭奴国』(後漢書)の倭国も博多周辺」
B「倭国の中心が博多だから、その祖神ニニギの天降った日向も博多周辺、例えば現日向(ひなた)峠近辺」
C従って「日向の小戸(記紀)も博多周辺」
としている。比定順序が「倭国 → 日向 →小戸」だ。これはかなりの説得力が有る。「小戸は日向=博多」だから「小戸彦島説は論外」とされる。
しかし、この九州王朝説は B「倭国の祖神はニニギ」を証明無しに前提としているが、これには重大な誤りの可能性がある。なぜなら「天降りは天孫ニニギだけではない。天孫ホアカリ(=ニギハヤヒ)も天降りしている」(先代旧事本紀)とする説もあり、これを検証した論証が不可欠なのだ。これについては第四章で「倭国の祖神はホアカリ」「天孫ホアカリの天降りは遠賀川・博多」を論証する。そうであるなら、「ニニギの天降り先日向」の比定は別に進めても良い。
定説や九州王朝説の「常識」から解放されて「確かな比定論証ができた小戸」を比定基点として「日向」の比定地を探すのも理に適った方法といえる。「小戸は彦島」と比定したからイザナギの「筑紫の日向の小戸」は「彦島に非常に近い筑紫」、即ち「日向は関門海峡筑紫側(例えば門司)」を比定候補とすることができる。
以上まとめると、「イザナギの高天原は対馬(比定)、オノゴロシマは沖ノ島(比定)、イザナギの小戸は彦島(比定)、日向は門司(比定候補)」とすることが出来る。「日向」はイザナギだけでなく、ニニギがより深く関係するので次章で検証し、比定論証を目指す。
[注1-13] 同一領域視 筑紫の範囲は彦島も含んでいた別の視点がある。古代の國は面する海で区分されていたようだ。「筑紫島は四面にそれぞれ筑紫國・豊國、、、がある」(古事記島生み神話第二段)とある。これに依れば「小倉・門司まで筑紫国」としてよい。彦島も筑紫に分類されていた可能性もあろう。なぜなら、関門海峡の両岸を一体として見る見方がある。仲哀紀に「穴門より向津野大済(むかつのおおわたり、豊国宇佐)を以ては東門(関門海峡瀬戸内海側)とし、名籠屋大済(戸畑名籠屋崎)を以て西門(関門海峡日本海側)とす、、、」(括弧は紀岩波版頭注)とある。二つの見方を合わせた「戸畑〜彦島」が筑紫の一部に分類された時代があってもおかしくない。
後年になると、企救半島の東西両側を豊国とされている。即ち、応神紀・仁徳記では「豊国難波大隅宮」「豊国難波高津宮」が出てくると共に天皇御幸の歌として小豆島(あずきしま)など関門海峡北西側が出てくる。小倉・門司が応神・仁徳の所領となり、豊国に区分されるようになったのはそれ以来、と思われる。応神が貴国(大和軍・東方軍の半島征戦の後方基地)を肥前北から豊国に移したことと関係あるだろう。この区分は多利思北孤の頃、倭国令制国として確定し、大宝律令に引き継がれたと推測する。以後、明治まで小倉・門司は「豊国・豊前」に含まれる。筑紫国ではない。
要すれば「ニニギ〜仲哀の時代は筑紫〜小倉(葦原中つ国)〜門司(日向)〜(彦島(小戸)まで筑紫国であった可能性があり、応神以降は海峡を重視して企救半島の日本海側〜彦島〜半島瀬戸内海側が豊国に編入された可能性がある、と考える。
●311 第一章 [注]
[注1-1] 魏志倭人伝 中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280年-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。「魏略」を原典としている、とされる。「魏略」
は魏末〜晋初(270年頃)に編纂された同時代的な史書だが、散逸して完全本は写本も残っていない。
[注1-2] 原文 古事記島生み神話第三段原文
「然る後、還り坐す時、
(1)吉備児島(きびのこじま)を生みき、亦の名を建日方別(たけひかたわけ)と謂う、
(2)次に小豆嶋(あずきじま)を生む、亦の名を大野手比賣(おほのでひめ)と謂う、
(3)次に大嶋(おほじま)を生む、亦の名を謂大多麻流別(おおたまるわけ)と謂う、
(4)次に女嶋(ひめしま)を生む、亦の名を天一根(あめひとつね)と謂う、
(5)次に知訶嶋(ちかのしま)を生む、亦の名を天之忍男(あまのおしを)と謂う、
(6)次に兩兒嶋(ふたごのしま)を生む、亦の名を天兩屋(あめのふたや)と謂う」
[注1-3] 「六島」の通説比定地はバラバラに以下とされてきた。
(1) 吉備児島=岡山県(吉備)南部の児島半島
(2) 小豆島(あずきじま)=香川県の小豆島(しょうどしま)
(3) 大島(おほしま)=山口県周防大島町
(4) 女島(ひめしま)=大分県姫島(ひめしま)
(5) 知訶島(ちかのしま)=五島列島宇久島
(6) 両児島(ふたごのしま)=五島列島小値賀島
[注1-4] 「六島は関門海峡北西」比定説 三つを挙げる。
@「山口県風土誌」全13巻 明治37年、「蓋井島」の項に「古事記六島の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」とある。根拠は先行考証(本居宣長考証・「長門国志」など)を挙げているが、視点が神功皇后に偏り本論にとって充分でない。
A西井健一郎説 「私考・彦島物語 I〜II」古田史学会報No71号(2005)〜」。説の中心は「イザナギ〜神武までの活躍の中心地は下関市彦島である」とするもので、その他広範囲の考察を上記会報に多数回発表している。「筑紫の日向の小戸」の解釈に「彦島/小戸も筑紫の一部」とするのは卓見だが、「彦島=日向」とするのは無理がある。「彦島は日向の一部」が限度であろう(次章参照)。
B 前原浩二説 「http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-1-4.pdf」に記されている。前原浩二説は西井健一郎説を発展させて、「島生み第二段大八島、第三段六島の比定を具体的に提案している。第二段の「淡路島」「伊予二名嶋」及び「第三段の六島」の比定は参考になった。しかし、全体としては根拠・論証の無い仮説の積み上げが多く、説得力は必ずしも充分でない。
[注1-5] 蓋井島 前注 「山口県風土誌」全13巻 明治37年、9巻「蓋井島」の項に「古事記の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」)とある。
[注1-6] 応神の難波大隅宮 河内に応神陵があるから応神が河内で崩御(記崩年394年)と考えられ易いが、応神陵は仁徳東征(405年以降、九州から河内へ、仁徳紀)後の築造(改葬)と考えられる。「難波」には摂津難波説(通説)・博多難波津(九州王朝説)・豊国説があるが、応神紀の難波は大隅宮のある難波であるから、次の資料と同じ難波であろう。「大連に勅して云う、難波の大隅嶋と媛嶋の松原に牛を放ち、名を後に残す」安閑紀二年(535年)。この「媛嶋」は豊国姫島(大分市)であると言われ、比売語曽社で有名である。比売碁曽社は姫島の前は難波にあった、とされる。垂仁紀に「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、、、海を越えて日本国にいたる、探し求めた童女(おとめ)は難波に至り比売語曽(ひめごそ)社の神となった、また豊国の国前郡に入って比売語曽社の神となった」とある。応神ゆかりの難波大隅宮は豊国媛嶋と関係深い。
更に応神五世孫とされる継体の継嗣安閑天皇は豊国に多くの屯倉(筑紫君磐井遺領)を得て、豊国勾金橋(まがりのかなはし)に遷都した(安閑紀534年)。その屯倉の一つ難波屯倉を妃宅媛(やかひめ)に与えたという(同)。与えたのは宮の近くの自領であろうから難波屯倉は豊国(豊前)と推定される。応神の難波は企救半島周防灘側と考えられる [注1-7] 。詳細は前著第六章参照。
[注1-7] 仁徳の難波高津宮 九州を出ていない応神天皇が難波大隅宮で崩じ、その直後の仁徳即位元年条の難波高津宮は摂津難波でなく、豊国難波である。仁徳記の歌に「なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば」とある。難波の岬が自領を国見するに適していることは、企救半島の東西に自領があったからであろう。西側に吉備の国や諸島があり、東側(周防灘側)に難波の宮があった、とするのが妥当な解釈であろう。 仁徳は祖先の伝承「島生み神話」も「神武東征の吉備と難波」も知った上で関門海峡を幸行しているはずだ。「淡道嶋」「なにはのさき」「あはしま」「おのごろしま」「吉備」が近くに視認できることに納得し、満足している(仁徳記の歌、上掲)。
[注1-8] 伊予二名島 古事記島生み譚第二段では、まず「淡路之穂之狭別島」次に「伊予之二名島、この島は身一つにして面(おも)四つあり、面ごとに名あり、かれ、伊予の国を愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ、粟国を大宜都比売(おおげつひめ)と謂ひ、土左国を建依別(たけよりわけ)と謂ふ。」とある。日本書紀ではこれら四つの国の事は触れられていない。
[注1-9] 彦島 彦島とはどんな島か。日本書紀に一か所「穴門の引嶋(ひこしま)」(仲哀紀、読みは岩波版による)と出てくる。大きさは2km四方ほど。下関とは環濠のような狭く曲がりくねったS字を裏返したような形の海峡(幅50〜300m、長さ4km程)で隔てられている。関門海峡を大瀬戸、この海峡は小瀬戸(又は小門(おど)・小戸(おど))とも称される。海峡の片方の口(逆S字の南方)は関門海峡の中程(巌流島がある)に通じ、幅30m程で狭く潮流は速い(上瀬、現在彦島水門がある)、他方の口は日本海の響灘(ひびきなだ)に面して幅300m程で広く潮流は遅い(下瀬、現在彦島大橋がある)。中程(中瀬)に現在小戸公園がある。彦島水門はパナマ運河形式で漁船程度は通れるが、潮流は現在は遮られ、海峡は港として使われている。下関側は埋め立てがあり、当時の岸がどの辺か不詳。
[注1-10] 西井健一郎説 「伊予二名島(いよふたなじま)は現彦島」とする価値ある一説 西井健一郎「私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索」古田史学会報No71号(2005)
[注1-11] 地名・国名移植 移植の動機は幾つもある。@ある土地の一族が集団移住した場合、例えば仁徳時代の九州飛鳥の漢人が難波飛鳥(近つあすか)、奈良(遠つあすか)に移住した例、蘇我氏が肥前飛鳥を大和飛鳥に地名移植した例。Aある土地の氏族が地方の領主に任命派遣された場合、例えば「崇神朝の吉備津彦
→ 派遣先で吉備王国 → 吉備国。B 九州古代国名の列島拡散、例えば多利思北孤の律令制、「軍尼(くに、国造か)120有り」(隋書)、国があれば国名の命名がある。C倭国の令制国(豊前・豊後など?)。E日本国の令制国(702年大宝律令?〜明治まで殆ど不変)。また、多段階の移植経緯もある。例、例えば「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→
神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) → 吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など。この様に、国名移植の前に地名移植が有り得、地名移植があったとしても、元の地名が遺存されて複数の同名が並存する場合もあるなど複雑だ(複数の飛鳥、複数の難波など)。ここでは表記の不統一は原典に従った。地文と歌の万葉仮名の違いなど。「淡道嶋」=「淡道之穂之狭別嶋」、「阿波志摩(万葉仮名、あはしま)」=「淡嶋」、「淤能碁呂志摩(万葉仮名、おのごろしま)」=「淤能碁呂嶋」とした。
[注1-12] 他の可能性 「高天原」の比定候補として沖ノ島を経由地とする関門海峡の「対岸」として「釜山」付近も地理的には可能性がゼロではない。しかし、次章に登場するサルタヒコ船団の拠点が対馬であること、対馬国神サルタヒコとニニギの関係が「仕え奉(まつ)る」と主従関係であること、ニニギの祖イザナギの関門海峡への渡海にサルタヒコの祖が関係した可能性が高いこと、ニニギの祖アマテラスが選んだ「もう一つの高天原」が釜山でないこと(第二章)、などとの整合性を考慮すると、イザナギの高天原が対馬以外である可能性、特に釜山である可能性は無い。それは同時に「イザナギ〜アマテラス一族は海照らす神を祀る海族であること」、「新羅系・高句麗系である可能性は無い」ことを証している。「イザナギの高天原はアマテラスの高天原と違う」については第二章で検証する。
[注1-13] 同一領域視 筑紫の範囲は彦島も含んでいた別の視点がある。古代の國は面する海で区分されていたようだ。「筑紫島は四面にそれぞれ筑紫國・豊國、、、がある」(古事記島生み神話第二段)とある。これに依れば「小倉・門司まで筑紫国」としてよい。彦島も筑紫に分類されていた可能性もあろう。なぜなら、関門海峡の両岸を一体として見る見方がある。仲哀紀に「穴門より向津野大済(むかつのおおわたり、豊国宇佐)を以ては東門(関門海峡瀬戸内海側)とし、名籠屋大済(戸畑名籠屋崎)を以て西門(関門海峡日本海側)とす、、、」(括弧は紀岩波版頭注)とある。二つの見方を合わせた「戸畑〜彦島」が筑紫の一部に分類された時代があってもおかしくない。
後年になると、企救半島の東西両側を豊国とされている。即ち、応神紀・仁徳記では「豊国難波大隅宮」「豊国難波高津宮」が出てくると共に天皇御幸の歌として小豆島(あずきしま)など関門海峡北西側が出てくる。小倉・門司が応神・仁徳の所領となり、豊国に区分されるようになったのはそれ以来、と思われる。応神が貴国(大和軍・東方軍の半島征戦の後方基地)を肥前北から豊国に移したことと関係あるだろう。この区分は多利思北孤の頃、倭国令制国として確定し、大宝律令に引き継がれたと推測する。以後、明治まで小倉・門司は「豊国・豊前」に含まれる。筑紫国ではない。
要すれば「ニニギ〜仲哀の時代は筑紫〜小倉(葦原中つ国)〜門司(日向)〜(彦島(小戸)まで筑紫国であった可能性があり、応神以降は海峡を重視して企救半島の日本海側〜彦島〜半島瀬戸内海側が豊国に編入された可能性がある、と考える。
第一章 了